バンドの日章旗。
 
 
 
■ 1920年代、上海には25000人ほどの日本人がいた。
 外国人総数の47%であったと言われる。
 彼らの5%ほどがいわゆるエリートで、長崎から運ばれてくる物資で、内地と全く同じ生活をしていた。残る40%が給与生活者である中間層。それから一般民衆層となってゆく。
 虹口(ホンキュ)が、いわゆる日本人街と呼ばれるようになるのはこの頃からである。 
 
 
■ 第一次上海事変が起きたのが32年1月28日。
 満州事変(31年9/18)の暫く後である。
 作家、村松梢風は「上海事変を観てくる」というルポルタージュで、極めて自国中心・ある意味で独善的な上海観を披露していた。
「魔都」と題した23年の上海見聞紀が、都市の表層をなぞったものであったのだから、ある意味でその歴史観は当然である。すなわち、娼婦、犯罪、博打などの異国趣味としての上海。日本人の上海観はこれで定着したとも言われている。
 
 
 
■ 今、「夜の魚 外灘」を書いていた頃の資料を引っ張り出してはいない。
 メンドウというか、野暮ではないかと思うからだが、確かダンボールに入ったまま何処かに片付けられているはずである。
 今、再掲している作品のある部分は、日本と戦争の関わりについて断片的に記したものになるだろうか。
 児玉機関、とか書いても分かる人は少ないだろう。
 例えば60年安保の前に、博徒などの大同団結を呼びかけた人物であると書けば、最近静かにブームである戦後愚連隊の伝記などとも繋がるだろうか。「ほんまりう」さんが絵を担当した「修羅の群れ」という極道漫画には、関東の大親分と児玉氏との親交が描かれていた。
 いずれにしろ、この部分は理屈ばかりで、読んでいて詰まらないかも知れない。
 小説ではこういうのを「ダレ場」とも言い、作品に厚みを持たせるものだとされているが、それが成功しているかどうかはまた別である。