豚にヘソ。
 
 
 
■ 世の中が騒がしい。
 戦争が起きるような気がする。
 と、連ねると、漱石の「夢十夜」の書き出しになってゆく。
 ほぼ10年前に書いた「夜の魚 外灘」は、部分的に風俗が古くなっているものの、とりあえず再掲しても問題はない程度だと思われた。
 もちろんこれはフィクションで、実在の人物・団体とは一切関係がない。
 そのおつもりで読んでください。
 
 
 
■「豚に臍を舐められますが、ようござんすか」
 と、正太郎は尋ねられる。
 迫りくる豚を、懸命にステッキで叩くのだが、これは何を象徴しているのか。
 漱石は上海にゆかなかったが、高杉晋作は訪れている。明治の極めて初期、上海は外国というものの最も尖った入り口であった。
 大正期、谷崎や芥川が近代都市・上海を訪れ、例えば吉行淳之介の父エイスケも、井上紅花や村松梢風らも、上海を通過しながら近代都市というものの二極分化を体験した。
 上海を「魔都」になぞらえたのは、村松梢風である。
 金子光晴の名作「どくろ杯」も、その入り口は上海であった。
 
 
 
■ 簡単にあれこれを言うのは避けたいが、今この国で起きている社会の二極分化の構造というものが、大陸を舞台にするとどうなってゆくのか。
 上海の摩天楼のような高層ビルは、NYやシカゴにあるものを援用していて、アールデコとも、ポストモダンであるとも、俄かに判断がつかない。
 某かの過剰さは、60階立てのビルの側面に、細かなビスのようにエアコン室外機がついていることでも知れ、あれが落ちたりした場合どうするのかと人事ながら心配になった。 とは言え、天現寺から首都高速に乗ると、背丈は違うものの、そうした構造のビルが我が国にもあって、メンテナンスの仕方が不思議である。
 それにしても、迫りくる豚に臍を舐められたらどういう気分がするのだろう。
 ぶう。