ドリームランド 4.
 
 
 
■ 手元に「ナチ・ドイツと言語」(宮田光雄著:岩波新書)という本がある。
 やや長いが引用させていただく。

 ナチ・ドイツの『第三帝国』は、ヴィマール共和国の政治的・経済的な失敗から生まれたというだけではない。むしろ、敗北と苦難の中から、ふたたび人々に名誉感情と自己意識とを回復してくれる『救済者』にたいする民衆的待望から生まれてきたのであった。そこでは『救済』は、古い腐敗した世界が没落し、腐敗をもたらした『悪い敵』が絶滅させられることによってのみ可能になる、と信じられた。このような危機は世界的であり、事を決する最終的な時は目前に迫っている、という漠然とした予感が広がっていった。
人々の待望した未来像には、ある種の擬似宗教的なイメージがまとわりついていたことは否定できない(前掲:5頁)。
 
 
 
■ 既に1933年、ウィーンの政治学者エリック・フェーゲリンはその著書「政治的宗教」の中で、政治の世界におけるメシアニズムを指摘している。簡単に言えば英雄待望論、カリスマを待つ社会的な心情、その空気である。
 ナチの思想の背景には、弱肉強食を是とした社会的ダーウィニズムがあった。
 全てを野放図な市場原理にまかせ、勝者だけが生存に値するというそれは、水面下で畢竟過剰な民族意識につながってゆく。
 
 
 
■ 私は今の日本は、ある種の戦前ではないかという疑いを持っている。
 あれから60数年経っているのだから、個々の顕れ方や段階は違っているが、大雑把にいって社会に漂うある種の閉塞感の総量は、いかばかりだろうと考える。
 伝統的な体制から零れ落ちたかのようにみえる、無数のひとたちがいる。
 それはフリーターであったり派遣の立場だったり、あるいは煩雑な立場の変更と再編成に右往左往せざるを得ない組織人であったりする。
 いつの間にか明白な階層が生まれていて、これ以上はいけないということがはっきりと分かる。果たしてこの上というものが何なのか、それも不分明になった。足元が崩れる。
 フェーゲリンの「政治的宗教」を、仮に経済に置き換えて読み解くことが可能だとすれば、経済活動のある部分が、擬似宗教の匂いを放つようになって実は久しいのではないか。
 加えれば、そこには常に投機的なものが常駐していて、多くのひとは自らの閉塞感と空洞から惹かれてゆく。
 ネットの世界の擬似平等感が拍車をかける。