みなが同じ世界に住む日。
■ ネットの世界にいると、ついそのように錯覚してしまうことがままある。
少し前の掲示板もそうであるし、ソーシャル・コミュニケーションサイト(だったか)も、実を言うと実態は緩やかな出会い系に近い。
出会い系はといえば、メールレディという匿名と幻想の存在がいて、これを芸風として楽しめれば良いのだが、それにしても自分ではない何ものかになることが、誰もが旨くなった。
■ 私は六本木ヒルズ近くの24時間スーパーに買い物にゆくことがある。
当初はやや高価なものばかりを並べていたのだが、一年もするとそうもゆかず、注意深く眺めると青物横丁と同じものが並んでいたりする。
外側のデザインが洒落ていて比較的安価なトイレット・ペーパーがあって、前に並んでいた妙齢が買っていた。
私もと思い、使ってみたのだが、かなり痛い。
あれこれ考え、唸ってしまっていた。
■ ヒルズ近くの煙草の吸えないコーヒー屋では、長いことノートPCを持って忙しそうにすることが流行った。単にメル友にメールを書いているだけなのだが、廻りからは何か難しいことをしているかのようにも見える。
これを編集者ごっこと呼ぶのだが、彼や彼女はノートPCをどうやって持ってきたのだろう。
先端であることを誰かに見せたい時期というのはあるもので、ここはIT関係の、夜の大黒埠頭みたいなものかとも思った。
ネットの世界では誰もが平等である。低金利で金を借りることもできるし、いざとなれば編集なんかも学べる。
皆が同じ世界に住む、という現象は20世紀後半からのグローバリズムのひとつの結果である。グローバリゼーションはICT革命とシンクロして進行してきた。
が、実は同じように見えるだけなのであって、細かな差異がそこでは決定的な意味を持っていることを、我々は知っているのだが口にしない。