青瓶の頃。
■ 影の青瓶軍団が、緑坂と青瓶を峻別してくれたのだが、私の昼間の厄介が遅々として進まず、対応しきれていない。
今、HDDの中を眺めていたら、こんな青瓶をみつけた。
確か、96年の12月の頃合い。
後半、なかなか面白いことが書いてあるので転載してみる。
厳密には緑坂ではないが、ま、そこは流れで。
やどなし。
■ さてまあ、そういった按配で、青瓶はこちらに書くことになった。
いずれ収まるところもできるだろうが、それまでの宿なしということか。まるでラブホテルを転々とする逃亡者のようである。ちがう。
■ 旧yomiの文芸は、今なかなか面白い状態になっている。
長谷川さんの、真摯に自分の居場所を求める書き込みもあり、仕事をがんばっている若いもんの、溜まっていたものを掃き出すかのような一連のものもあり、一時期に比べるとすこしだけ密度が濃くなった。
けれども全体としては、何処へゆくべきかが今だ定まらない状態が続いているような印象も薄く残っている。ま、人生とはそんなもんだ。
江戸さんが面白いことを書いていた。
何故書くのだろう。
書けばいいってもんじゃないだろう。
つまりはそういうことを言外に匂わせていた。
■ 一体に恋愛というものはそんなに綺麗なものではない。
大人、つまりは妙齢半ば、具体的には三十歳前後からの恋愛というものはどんなに美辞麗句で飾ってみたところで、背後には生臭さがびっしりと貼り付いているものである。
その点に無自覚な個人の書いたものは、たとえ習作の段階であっても他人から一定の評価を受ける。
無言のこともあり、言外に匂わすこともあり、直裁に別のことを指摘されることもある。つまりそれが世間というもので、その個人の幻想の反芻に誰もつきあいはしない。
さて、ここで振り出しにもどる。
何故書くのだろう。
どうして誰かに読んで貰いたくてボードに掲載するのだろう。
一度書いたものを翌日見直してみて、どうにもアップできなかった経験が誰にもあると思う。
書くことは誰でもできる。掲載することも。
しかし、その両者の間には細いけれども深い溝のようなものがあって、それが文章を作品たらしめている大きな要因のひとつであるように今は思えている。