「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.38

 
 
 
■ 細い路地を抜け踏切を越えた。下北沢の劇場の地下に車を入れた。
 ネオンが並んでいる。その前に若い男女が座り込んでいる。自転車のサドルの上で口を吸っている。
 すこし歩く。駅から五分ばかりという。確かここだ。
 マンションの下にある公衆電話で晃子の部屋にかけてみる。
 応答はない。三度繰り返した。不思議な予感がする。不安が這いのぼってくる。
 エレベーターに乗った。鍵を持っていることを思いだした。チャイムを鳴らし二分程待った。返事がなく、鍵を開けてみる。玄関のつきあたりから右に曲がった小さな部屋に彼女はうずくまっていた。
 ふりむく。
 年齢より五歳年をとってみえた。尋ねても答えない。
 のろのろと立ち上がり、小さなソファに座ると、
「あなたって、大事な時にはいつもいなかったわね」
 と、低い声で言った。

「夜の魚」一部 vol.37

 
 
 
■ 馬鹿げているのは車だけではない。
 私はBMWを出した。高速の黒い二車線で四速、一八○まで出た。
 エンブレムは外されているが三二三だ。
 矢絣のラインも注意深く消されている。アルピナだろう。
 マルニイの後、BMWは四つ目になった。比較的マイルドなハンドリングに変わり一部のマニアを失望させた。
 首を傾けるだけでコーナーを過ぎるような神経質さは薄れたが、その分売り上げを伸ばした。八十年代の半ばから、チューンするメーカーが現れた。元々はプライベートでレースをする物好きのためのチューナーで、大振りなオーバー・フェンダーをつけ、スパ辺りでアルファと競っていた。
 この脚はビルシュではない。
 イタリアの赤いダンパーで、私も二十代の頃スカイラインにつけ遊んでいた記憶がある。収まりが硬くないのだ。
 湾岸から箱崎を過ぎた。とたんに空気の密度が濃くなる。
 二速に落とし、きついコーナーを曲がった。
 流れてはいるが一度にはゆかない。
 カムが変わっているのか、赤い部分から更に廻ろうとする。
「葉子の親父ってのは、何者なんだろう」
 元々は前後にある羽を外し、十数年前の車をこれだけに保っている。