「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.52

 
    十一 別の夢
 
 
 
■ 私たちは芝浦の倉庫に戻った。吉川がきていた。葉子は横を向いている。
 前に晃子がコピーしたものの中にNPAの革命歌があった。

 山岳地帯で生まれた一団がやってきた
 私達の目的は ハポンを一掃すること
 私達は新人民軍 皆さんの奉仕者

 ここで言う、「ハポン」とは日本軍のことではない。マルコス、ないしはアキノに率いられた政府軍のことである。今日ではウエストポイントを卒業したラモスをも指しているのだろう。
 アジア特有の大土地所有制度に対抗することを主たる目的として結成されたフクバラハップは、大戦の際抗日戦線を張った。戦後、親米政権に反乱を起こし、一時は二万五千の兵力を誇っている。しかし、六十年代に入り凋落を続け、わずか数百人にまでその数は減ってゆく。
 当時、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ始めていた。
 文革とは、「造反有理」という名コピーを生み出した一大政治社会運動である。正しくは、「造反有理・破旧立新」というらしい。毛沢東の夫人、チァン・チン女史ら文革小組が若く過激な学生・労働者を組織し、当時の実権派を追放しようとした陰惨な権力闘争だった。
 その頃、フィリピン共産党の内部では旧来の親ソ派と若い知識人や学生運動家からなる親中派が争っていた。
 親中派の指導者が、ホセ・マリア・シソンである。シソンは国立フィリピン大学の出身で、マルコスと同じイコロス地方の裕福な地主の家柄に生まれた。
 母校で政治学を教えるかたわら、詩人・ジャーナリストとしても次第に名を馳せるようになってゆく。
 一九六七年八月、シソンは学生・ジャーナリスト訪中団の一員として北京を訪れた。そこで彼の毛沢東思想への傾斜が深まってゆく。それが翌年、毛沢東七五回目の誕生日になされたCPPの再建に繋がっていったとされている。
 四ヶ月後、NPA、新人民軍が発足した。建軍された六九年だけでも政府軍との間に八十回の戦闘があったと記録にはある。
 
 〈鉄砲から政権が生まれる〉
 そのように信じていた沢山の若者が日本にもいた。二十数年前のことだ。
「俺だって、すこしはそう思ったんだ」
 吉川が言う。彼の目蓋は重そうに垂れている。

「夜の魚」一部 vol.51

 
 
 
■ 夜はまだ浅く、横羽線もとりあえず流れている。
 横浜スタジアムの手前で高速を降り、税関のある方角に曲がった。
 ビルは税関からすこし入った脇道にあった。五階建、二十年は経っているだろう。外側に細い階段がある。法律事務所と会計事務所、「公洋貿易」と書かれた会社の横浜支店がある。いくつかのプレートは空白になっていた。最上階を除くと灯りはついていない。階段を昇ろうとしたが、カメラがあることに気付いた。ダミーかも知れないがわからない。葉子が関係したという市民団体はどの階にあったのか。他の事務所と共同だったのかも知れない。
 
 税関を離れ海岸通りに近づくと、運河沿いのホテルがみえた。夏の始め、そこで葉子を待っていたことを思いだした。
 港のみえる丘の公園へ昇ってゆく急な坂道がある。その先は陸橋になっていて、片側に車を駐める場所があった。多摩ナンバーのホンダの後ろにカマロを駐め、晃子と元町を歩くことにした。
 
 街は変わっていたが薄い匂いは同じだ。あれから十年が経っている。
「あそこにあるコート、これが終わったら買いなさいね」
 晃子がショー・ウィンドーを指さす。紫の混じった伊製のウールだ。晃子には似合うだろう。
「バーゲンまで待ってくれよな」
「ふふ」
 そういえばそんな笑い方はしなかった。
 若さはいつも切実で、知らずに相手を追いつめていた。自分だけが夢をみていると思い上がっていたのだ。
 輸入雑貨屋でワインを買った。これは旨いのだと晃子は主張する。コーヒーの豆も挽いて貰った。晃子は下着と化粧品を買い、私は煙草を吸いながら店の外の歩道で漠然と立っていた。荷物を渡されて持つ。
 中華街の外れの店で、排骨炒飯と数品を頼んだ。
 晃子は鳥肉が苦手だったことを思いだした。
「ねえ、あなた、昔はビールなんかついでくれなかったわよ」
 晃子は笑っている。しかもよく食う。
 カマロに戻り、すこし遠回りをすることにした。埠頭のひとつに入り車を停めた。ラジオが古い曲を流している。けれども、向こう岸はみえない。
 
「どうして別れたんだ」
「逆の理由。わたしが浮気をしたの」
 産毛を風が撫でてゆくような気持だ。
「昔は金がなかった」
「今だって、そうじゃない」
 すこし歩いた。コンテナの傍で唇をみたが、近づくとすこし怖かった。
「傷を嘗めて」
 晃子が言う。ブラウスのボタンを外し、唇を胸に近づける。
 塩だ。