「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.76

 
 
 
■ 桟橋の中に入った。
 鍵をかけ忘れた柵があって、横に動かして車を入れた。
 人影はない。
「この曲、聴いたことがあるわ」
 オーケストラの演奏でクライマックスに近づいていた。曇った音は録音が古いせいだけでもない。音をすこし大きくした。黙って聴いている。
「なんだか、自由への渇望って感じの演奏ね」
 葉子は人の心を読む。こちらが気付いていない偶然の出来事の意味を探る。カセットを持ってきたのはフトした弾みで、棚の端にあるものを選んでみた。それがフルベンだったのだ。演奏は一九五○年くらいのもので、当時のヨーロッパは大戦の痕が生々しく残っていた。ドイツはふたつに割れ、戦争の危険すら濃厚にあったという。
 
「わたしね、ローラって本を読んだことがあるのよ」
「フライパンで母親に焼かれた女の子の話」
「口も耳も、みんな不自由なの」
「ボランティアを始めた頃、読んだの」
 幾分かは嘘が混じるのだろう。
 しかし、別の意味を考えることにした。自分も焼かれているのだと示唆しているのかも知れない。半ば嘘が混じり、半ば切実で、その間を葉子は忙しく揺れている。揺れに耐えられなくなると、自分を物として扱おうとするのかも知れない。
「君は、マゾか」
「え」
「マゾッ気が強いだろう」
「うん」
「安心するのか」
「わからないけど、そうかも知れない」
 サディスティックな部分も強いことはわかっている。並の男以上に冷静・確実に車や銃を扱うこともできる。頭の中には残酷な思い付きが浮かぶことも度々あるに違いない。
「じゃ、寝ようか」
 ひとくぎりついたような気がした。

「夜の魚」一部 vol.75

 
 
 
■ 外に出ることにした。葉子はそれ程飲んでいない。
 葉子は皮のコートを羽織った。口紅が赤い。地下の駐車場にゆきBMWを出した。葉子に運転をさせる。山手通りに曲がってゆく。
 私は鞄からカセットを出し機械に入れた。
「なに」
「フルベンというじいさんが指揮するオペラだよ」
「芝浦にゆこう」
 イブの夜の山手通りは混んでいた。千葉や多摩ナンバーが並び、渋谷からの坂を下るのに一時間かかった。
 拍手の音が入っている。バス・バリトンの声が低く響いている。彼は悪役で、幽閉された囚人を謀殺することを命ずる。
「訳がわからないわね」
 葉子は薄い不満を口にした。しかし、ボリュウムを絞ることはない。
 私は何か別のことを考えていた。酔いは鈍いものに変わった。
 
 私は葉子に心を読みとる能力があるのではないかと思っている。
 今、ワイダをもってくるのは何故か。
 葉子を眺めていると、切断された鮮やかな断片が印象に残る。そうしたシーンはいくつも思い出すことができる。しかし、それらは分断されていてひとつのものとして統合されることがない。
 借りてきたビデオの中に鑑別診断をする場面があって、それは人間かそうでないのかを曖昧に区別する技術だった。友人から送られた文献のリストには、いくつもの質問形式が例文として載っていた。「ボーダーライン・スケール」と呼ばれるもので、該当するものが多い程疑わしいということになる。
 
「私は周囲の人や物事からいつも見放されているかんじがする」
「最初にあった時はその人はとても立派にみえるが、やがてガッカリすることが多い」
「他人は私を物のように扱う」
「残酷な考えが浮かんできて苦しむことがある」
「私の内面は空虚だとおもう」
 
 確か、そのような質問が五十程度並んでいた。試みにテストしてみれば、恐らく私も該当の範囲だろう。
 ポーランドには沢山の強制収容所があって、そこでは何十万というユダヤ人やジプシーが殺された。
 人種、民族という曖昧な境界であったが、線を引き、ひとつの民族を地球上から根絶しようとする思想は何処から出てきたのだろう。
 ベートーベンの、「フィデリオ」は難解で一般受けしないと言われる。
 確かにロマンチックでもないし、誇張されてもいない。
 暗く、聴いていると辛くなるかのようだ。
 車が流れ出した。
 葉子がセカンドで引っ張った。
 舌先を伸ばしていた時の表情は微塵もない。葉子は自分を物のように扱っているのだと気付いた。