二一 湿度ある沼
■ 晃子はワインを半分以上あけていた。次第に酔いが廻ってくるのがわかる。結局、まともなことはなにひとつ話さなかった。
葉子のこと、奥山のこと、フィリピン共産党の武装集団、遠く連なっている赤軍やそれと結びついている様々なボランティア組織のこと。北沢とは何者なのか。ひとつひとつは別々なのだが、それらは細い糸で繋がっている。
「泊まってく」
晃子が唐突に尋ねた。時計をみると十二時に近い。
寝ましょうか、と聞かれているのかと思った。
「ベット、ひとつしかないんだろう」
「どうかしら」
すこしだけ心が乱れた。振幅が顔に出たかも知れない。
「やめとくよ」
「彼女に悪いから」
そうじゃない。別に悪いとも思わない。その気がない訳でもない。ただ、なんだかモラルに反するような気がするのだ。そんなことを口にするのが嫌なので、黙っていた。
その時、電話が鳴った。晃子が椅子から立ち上がり受話器を取る。
晃子の顔色が変わる。カーテンを開けて外を見ようとする。
「北沢がきてるわ」
黒い瞳が大きく見開かれている。
私は受話器を晃子から受け取った。耳にあてると低い声が笑った。
「夜の魚」
「夜の魚」一部 vol.83
■ 手くらい洗うだろう、と思ったが黙っていた。
「白いセダンを買ったわ、あなたの嫌いな小さなベンツ。それで買い物にゆくのよ」
今のように世の中が変わりそれに馴れてしまう前、私たちは何か夢のようなものが目の前にあるのだと思っていた。
それは小奇麗なマンションだったり、女子大を出た妻であったり、イタリアのダブルのスーツであったりした。
様々なものが膨らみ、私の仕事もそのお零れに預かっていたのだ。
膨らみきった後、内蔵のようなものがはみ出し始めている。
「ある時ね、高いスーパーの喫茶店でお茶を飲んでいたのよ。隣に同じ歳くらいの奥さんが何人かいて、話しているのが聞こえたわ」
霜降りの牛肉は旨い。
遠くから外車に乗ってその店に買い物にゆくのが結婚に成功した女の証のように思われていた時がすこし前まであった。
駐車場には守衛がいて、車を値踏みしながら丁寧にお辞儀した。
「帰りに車をぶつけて、二週間入院したわ。退院してから、隣の病室に入っていた若い営業マンに誘われたという訳」