■「俺には娘がいるんだ」
吉川がぶっきらぼうに言った。私は吉川の横顔をみた。
「横浜の私立に通わせている。いい学校なんだぜ。片親だと入れなくてな、それまで籍は抜かなかった」
クリスマスの飾り付けのような細かな電球をつけた船が黒い海を横切る。中には畳が引いてあって、カラオケのセットがある。海の上で歌うのだ。私は吉川の娘のことをすこし思った。彼女も下校の時にはパールの入らないピンクの口紅を塗るのだろうか。
「おまえ、結婚したいと思ったことはないのか」
唇をすこし曲げ、吉川がこちらをみる。
「あったよ」
「俺達の頃はすぐに結婚をした。やるとすぐだ。仲間だけで実行委員会ってのをつくってな、会費制で歌をうたうんだ」
私は別のことを考えていた。長いこと、あらかじめ答えが出ているような気がしていた。余熱のようなものは根強くあったが、そこから先に進むことはなかった。吉川の言う、「まともに勤める」という言葉からすれば、私も随分逸れていることになるのだろう。それは時代のせいばかりじゃない。
「なんでおまえ、コピーなんか書いているんだ。ただ消費されるばかりだろう」
吉川が私に尋ねた。今まで同じようなことを何度も尋ねられた覚えがある。相手は違っていて、私の答もその時によって違うものになった。
「匿名ってのが好きなんだよ。信じてないんだ」
「何を」
「なんだろうな」
理解できない、という顔をして吉川は私の顔をみた。思想とか正義とか、そういった言葉に私はうんざりしていた。簡単には騙されまいと何処かで決めようとしているのかも知れない。
「あの晃子さんな」
吉川が唐突に言う。
「おまえの女だったのか」
「いや、古い友達だ」
私は嘘をついた。
「そうか。ものは相談だが」
吉川が私のカップに酒をつぐ。言い淀んでいる。彼は僅かに首を振り海の方角をみた。
「俺は惚れたみたいなんだ」
吉川は暫く黙っている。私もそれに倣った。
「似てるんだ」
「誰に」
「別れた時の、前の女房だよ」
「夜の魚」
「夜の魚」一部 vol.53
■ 晃子と葉子は管理人室に眠った。
何を話しているのか知らない。
私と吉川は倉庫の外側にある階段に座り、煙草を吸いながら東京湾を眺めていた。小さなステンレスのカップにスコッチを垂らす。吉川が持ち込んだのだ。
「混ぜ物ばかりだ、酒も女も」
吉川が言う。
「馬場の学生の頃、俺は時々集会に出ていた。ヘルメットも被った」
「三度目に捕まった時、起訴されそうになったんだ。起訴されれば大学も終わりだ。まともに勤めることなんかできっこない」
私は黙って聞いていた。口に含んだ酒の味は、幾つものものが混ざりあっている。
「羽田の時、俺はまだ高校生だった。付属だからな、政治的な自覚が高かったんだな。その時もそうだがこんどは起訴されるって時に、葉子の親父さんが助けてくれた。紹介状を書いて貰い今の会社に入った」
どうしてそんなことを話すのか、いぶかしい気持が浮かんだが黙っていた。軽口には飽きていたし、誰にでもそんな夜はあるのだ。
「わかってやっていた訳じゃない。そういう時代だったんだ。大学にゆかなかった仲間は沖縄にいった。ドルが三百六十円だぜ。そこで女を買ったんだそうだ。なんだか羨ましくてな」
レインボー・ブリッジがみえる。風は重く湿っている。
文革の頃、千葉に橋が掛かるなんて誰が想像しただろう。