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「夜の魚」一部 vol.100

 
 
 
■ 視界に赤い光が入った。いくつもある。
 警察車両だ。包囲するように、突堤の一番先をめざしている。
 サイレンを鳴らしている筈だが、風と古いエンジンの騒音で耳に入らない。
 ポルシェを追う。
 突堤の外れが近づく。
 角のところ、点滅する岸壁のマーカーのあたりに北沢は向かっている。
 まっすぐだ。そのままゆくと海だ。
 奴は落ちるつもりか。
 距離が縮まった。
 ポルシェの丸い尻がみえる。
 カレラ、と書かれたエンブレムすら読めそうだ。
 北沢がブレーキをかけている。また横になるつもりか。
 ハンドルは切らない。
 ポルシェのブレーキは信じられないくらい効く。助手席の者が鞭打ちになるくらいだ。
 ガクン、と速度が落ちて突堤の外れで止まった。
 葉子が何かを叫んでいる。
 間に合わない。
 そうだ、前は海なのだ。

「夜の魚」一部 vol.99

 
      二六 空
 
 
 
■ 左手でもう一本の瓶を取り出した。
 葉子に握らせる。
 オイルライターに着火し、運転席に投げるよう大きな声を出した。
 葉子が投げる。届かない。
 ダブルタイアの辺りが燃えた。トレーラーは止まらない。
 その時、列車が停まる時のような音がした。
 コンテナの真上に貨物船の錨のようなものが落ちて揺れた。
 ビル程の高さの、オレンジ色に塗られたクレーンが動いている。
 歩くような速度で近づいている。
 錨と思ったのは伸びている重い滑車だ。
 滑車はゆっくり揺れ、トレーラーの窓を叩き割った。
 ガラスが飛び散る。避けなければ即死だろう。トレーラーはそこで止まった。
 自走式クレーンの運転席は比較的低い部分についていた。中程、ちらりと人影が見えた。
 吉川だ。
 白いトレンチを着込んだ吉川が歯をむき出して笑っている。
 北沢のポルシェと交差した。奴は額から薄い血を流している。
 ライトの中で大きく口を開け、何事かを叫んでいる。聞いてはいられない。
 北沢のポルシェと並んだ。
 セカンドで六千まで引っ張った。サードに入れ右手を持ち換えた。
 震動が酷い。分解しそうな音をさせながら、古い直立二気筒は回転を上げる。葉子が腹を掴んでいる。太股がはだけている。鈍い加速だ。
 レンチを左手で掴んだ。古い単車にはシート・ベルトがあって、その脇に挟んであったのだ。
 ポルシェがすぐ脇にきている。丸いフェンダーをレンチで叩こうとした。
 外れた。ミラーが飛んだ。
 北沢のポルシェがあっさりと抜く。
 金属の擦れ合う音をさせ、みるみる遠ざかった。

「夜の魚」一部 vol.98

 
 
 
■ 葉子をみた。
 裸足で走っている。コートの裾が翻って、白い肌に綿のロープが念入りに巻き付いている。縄の下は裸だった。
 炎の中を突っ切った。熱くはない。
 ポルシェのドアに前輪をぶつけた。
 挟まれた北沢がよろめく。
 そのまま左に逸れ、コンテナの影まで加速した。
 追い付いた葉子を拾う。
 W1Sの小さなシートに、縄を食い込ませた葉子がまたがった。倉庫の裏側、B突堤が見える広い船着き場を加速してゆく。
 前が塞がった。
 後ろにコンテナを積んだ大型のトレーラーが、動く壁となってゆっくりバックしてくる。仲間がいたのだ。
 赤く塗られたコンテナには、「公洋貿易C&C」とある。
 いつだったか晃子が言っていた。
 毛沢東思想はいくつもの形をとって日本に残った。あからさまな例が、親中共派系の過激派集団だったが、重信率いるJRAに関しては、発足当時の、「連合赤軍」とは明らかな断層があると言われている。親中共系の団体のいくつかは合法的な会社を作った。今となってはそのほとんどがただ利潤を追うだけのものになっている。税関の傍にあったこの会社も、いくつかの企業の窓口になって莫大な利鞘を稼いでいるのだろう。
 
 大きく車体を傾け、私は逃げ道を捜した。浅いバンク角にキャプトン・マフラーが火花を散らした。
 北沢のポルシェが近づいてくる。右肩が熱を持っている。

「夜の魚」一部 vol.97

 
    二五 縄目
 
 
 
■ 銃はトカレフではなかった。
 艶消しの塗装で、サブノート型パソコンのような色をしている。
「そう、あんなもの自分では使わないんですよ。これはグロックという銃です」
「麻薬の密売ってのは儲かるんだな」
「ええ、人並みにね」
 この男が新人民軍の窓口であるとはとても思えなかった。
 淡い色合いの軽そうな上着を着ている。カシミアだろう。北沢は注意深く、開けられたドアの後ろに立っている。ロブの靴だ。
「革命の手助けをしているつもりなのか」
「ふん、もうじき世紀末ですよ。田舎の革命なんてどうでもいいでしょう」
「JRAはどうした」
「ええ、重信さんとは何度かお会いしました。日本赤軍の名前は便利でしてね、あちこちのマフィアも一目置いてくれるんですよ」
「NPA、スパロー・ユニットは仲間じゃないのか」
「彼らはテロリズムだけの職人です。なんでもそうでしょう、手段それ自体が目的になってゆきます。私は彼らの技術を買っているだけでね、仲間だと思っている訳ではない。この仕事には金を出す日本の閣僚もいるんですよ」
「そのデーターが入っていると」
「そう、だから漏れると困るんです」
 
 北沢は退屈そうな表情で比較的長く話している。NPAもJRAも、北沢には直接の関係がない。彼にとっては、利用できるただの取引相手であり、出入りの業者のようなものなのだ。
 閣僚というのは何のことだろう。だとすればフロッピーの回収だけで済む筈がない。北沢は確実に私たちを殺す気でいる。
 私は葉子をみた。口を聞かず、車の横に立っていた。死んだ魚のような顔色をしている。薬を使われたのだろう。
 
「随分仕込んだもんですね。以前は後ろも使えたのに」
 そこで頭が白くなった。
 ジャケットからビール瓶を取り出した。貼ってあるライターに火をつける。
 ポルシェのドアにむかって放り投げた。
 銃声がした。
 瓶は手前で割れ、ガソリンに引火した。
 炎が背丈ほどになる。北沢の顔が歪んでみえた。
 単車にまたがり、エンジンをかける。
「走れ」
 私は叫んだ。
 ローで引っ張ると、短い銃声が頬の横を横切った。
 右肩にもそれは弾け、肉が削げたのがわかった。
 痛みはまだない。

「夜の魚」一部 vol.96

 
 
 
■「寒い夜ですね」
 北沢が言う。
「ああ」
「オートバイとは御苦労なこと。それも懐かしいカワサキのW1じゃないですか。わたしもマッハとかZ1とか乗ってましてね」
「泣かせるだろ」
「まあね」
「ストーンズかなんか、かけろよ」
「泣くほどの馬鹿って訳ですね」
 彼は唇を斜めに笑った。薄い唇から出る笑い声は成程そういうものであるのかと思われた。北沢と私とは同世代だ。同じような空気を吸い、同じような音楽を聴き、同じような化粧に喋り方をする女と付き合い、寝た。十代の頃は多分髪を伸ばしていただろう。何処でどう食い違うのか、果たして何処まで違っているのか。そもそも、そんなことを考えること自体理屈には合わない。
「フロッピー持って来ましたか」
「葉子は」
 北沢が横を向いた。助手席のドアがゆっくり開き葉子が車から降りた。
 顔色がみえない。トレンチのコートを羽織っている。
「暫く乗らないうちに、車も女も随分味が変わるもんですね。本牧の港みたいだ」
 北沢は上着の胸に手を入れ、煙草を取り出して火をつける。
 片手には黒い銃があった。

「夜の魚」一部 vol.95

 
 
 
■ 丸いライトがボディに埋め込まれる直前のカレラだった。
 チューンしたとはいえ三十年近く前の単車がかなう訳もない。
 そんなことは始めからわかっている。
 私は銃を持たず、剥き出しの単車でここにきた。傷を負わせるつもりなら、幅寄せすれば簡単に出来るだろう。
 速度というのはいつも幻想の部分を含んでいる。かといってそれを否定してしまうことは、割り切れない幾つものものを無かったことにしてしまう。
 私はゆっくりとUターンした。
 セカンドとサードで加速し、二気筒の排気音を楽しんだ。
 突堤の一番端にポルシェは停まっている。後ろは黒い海だ。
 声の届くところ、顔が辛うじて見えるところで止まりW1Sのスタンドを掛けた。エンジンを切る。
 ポルシェのドアが開かれ、男が降りた。
 背の高い、肩幅の広い男が北沢だ。
「よお」
 声にならない笑いをどちらも浮かべている。

「夜の魚」一部 vol.94

 
    二四 速度
 
 
 
■ 背の高い水銀灯がコンクリを照らしている。
 触ればそのまま張り付くかのようなコンテナの鉄のことを思った。
 その脇をゆっくりと走らせる。
 すぐ脇に橋が見える。蒼白く空を遮っている。船の影はない。人影も、事務所の灯りも。
 水路には反射した水が重さあるもののように腹をみせている。
 ビルの高さ程もある自走式のクレーンの下を通った。
 部屋ほどの広さのあるコンテナを釣り上げて貨物船に乗せるため、埋めこまれたクレーン用の浅い線路がコンクリを横切っている。
 埠頭の中程を過ぎた。
 突堤の外れ、車が停まっているのがみえた。
 背の低い、屋根の丸い車だ。
 二度、ライトが短くつく。
 北沢だ。
 はじめはゆっくり、それから思い付いたように車は加速した。
 こちらに向かってくる。
 ポルシェだ。
 乾いたドライ・サンプの排気音が横切る。
 銀色のようにも、青が混ざっているようにもみえる。
 多分カレラ2だろう。北沢が4に乗るとも思えない。
 サードでひっぱっている。シューンという音が遠ざかる。
 私はブレーキをかけ、シフトダウンした。左足を軸に、単車の車体を寝かせアクセルを捻った。その場で小さくUターンする。脇腹の傷跡が伸びる。頭を低くして、回転を上げた。
 小さなテールを追い、埠頭の入り口へ向かう。
 片側三車線程ある埠頭の幅全てを使い、カレラは真横を向いた。
 ポルシェでブレーキ・ターンをするところを私は見たことがなかった。乾いた路面でそれができるのだとは俄に信じがたい。重い尻が奇麗に流れている。
 頭を二度振り、立て直し、こちらに向かって加速してくる。
 短くクラクションを鳴らし、そうだ、奴は遊んでいるのだ。

「夜の魚」一部 vol.93

 
 
 
■ 生麦を過ぎた。製鉄所の煙突からガスの炎がでている。
 車で通る時は気付かないが、はっきりと匂いがする。
 車体の内側に躯を倒す形でコーナーを廻る。頬が引きつった。ガラスのゴーグルをしていても、風が直接当たるのだ。
 S三○のZが先を走っている。
 ワタナベのホイルに太いタイアを履き、マフラーも太い。
 二八○○CCにはなっているだろう。懐かしいL型だ。
 加速して並んだ。
 一五○まで出した。
 横浜駅の上で奴はシフト・ダウンする。
 野太い排気音を巻き散らし、トンネルに下ってゆく。
 いけるじゃないか。
 私はなんとなく納得をしていた。これが最後になるのだ。
 橋の方角に曲がらず、スタジアムで降りた。
 中華街の自動販売機で缶を買い、ふたくち飲んだ。
 倉庫の脇を過ぎ、本牧の港に近づく。
 数年前まで埠頭には自由に入ることができた。
 鉄の柵ができ、その前には守衛がいて夜になると閉鎖されてしまう。
 
 私はB突堤から眺める夜の港が好きだった。
 コンテナの上によじ登り、別れた女のことを考えたこともある。
 朝になると、エンジンの塊のようなトレーラーが集まる。
 奴等は直角のコーナーを僅かに逆ハンを切って曲がってくる。一万CCのディーゼルエンジンの加速は、並みのセダンではかなわなかった。
 排気ブレーキを思い切り踏むと、女の背丈程あるタイアから白い煙が出ていた。
 朝になると小さなトラックが来ていて、トレーラーのドライバー相手に朝飯を売っていた。その横に混ぜてもらいウドンをすすったこともある。
 橋が出来る前だ。千葉から横浜が遠かった頃だ。
 
 若い頃、私はただの馬鹿だった。
 捨てきれないものが澱のように残っていて、それが何なのかよくわからない。
 W1Sもそうだ。
 程度の良いものを見つけ、あり金を叩いて数年前に買った。
 十代の頃乗っていたからなのだが、私の肩にはまだ金属が入っている。六ヶ月病室の白い天井を眺めて過ごした。その後大学をやめた。
 ゆっくりと単車を走らせる。
 短い排気音が響いている。
 C埠頭の重い鉄の柵は鍵が外れていた。車が入れるだけの隙間がある。
 一度止まり、ザックから瓶を取り出してジャケットのポケットに入れた。
 廻りを見渡し、埠頭の中に入った。

「夜の魚」一部 vol.92

 
    二三 突堤
 
 
 
■ W1Sは右足がギアになっている。慣れないうちは誰しもが戸惑う。
 私はメイン・スタンドを外していた。ただでさえバンクが浅く、思い切り倒すとアスファルトに触れすぐに火花が散った。
 加速する。八○まで引っ張ってブレーキをかけた。
 振れもせず、このままゆけるようだ。
 天現寺の傍のスタンドで有鉛のガソリンを入れた。空気を確認し、ワイアーにCRCを吹き付ける。スタンドの若い者が遠巻きに眺めている。
 タワーの前を曲がり、新橋の釣り具屋にいった。ジャケットとオイルライターをふたつ買う。その脇のペンキ屋でつや消しの黒いスプレーを求めた。
 産業道路に廻り牛丼屋に入る。
 特盛を頼み、卵を入れ五分で食った。
 サービスの券を貰ったが隣にいた白人にやった。彼はなまりのある英語で礼を言う。英会話学校の講師のようだ。
 大井から高速に乗り横羽線に入った。多摩川を渡ってすぐのパーキングに一度停め、黄色のジャケットに黒いスプレーを吹き掛けた。乾くのを待ち、皮のジャンパーの上に羽織ってジッパーをあげる。
 橋の上から遠い東京がみえる。
 川向こうだ。
 いくつもの点滅する灯りがあり手前には空港がある。風も強い。
 海は何処なのか、と思うのだが、入り組んでいて定かではない。
 人気のないことを確かめ、W1Sのティクラーを押し、ガソリンをビール瓶に詰めた。ガムテープで蓋をする。ライターを縛り付けた。
 メッキに黒のタンクは、これで相当軽くなった。
 晃子に電話し、C突堤にゆくのだと言った。

「夜の魚」一部 vol.91

 
 
 
■ W1SはホンダのCBがでるまで国内最大の単車だった。
 イギリスのBSAを手本にしたと言われるエンジンはOHVで、つまりカムシャフトがクランクのすぐ上にあり、プッシュ・ロッドを介してバルブを操作していた。五三馬力、最高速度一八五キロであるという。
 実際はそれ程でもなく、一六○で一時間も走れば必ずと言っていい程焼き付きをおこした。こいつも一度ピストンを焦がしている。その時にロッドを細いものに替え、カムを削り直し、圧縮をあげてやった。バルブも磨く。
 オイル・クーラーをつけ、貧弱なドラム・ブレーキはヤマハの古いレーサー、TZのドラムを移植した。リアのショックは七十年代のカワサキの四気筒、ザッパーと呼ばれた六五○のものがピタリと収まった。
 どうした訳か、オイルはカストロールの相性が良く、五○○キロで交換してやると、タコ・メーターの針は赤い部分を嬉しそうに揺れていた。
 実測で二○○は出ただろう。首都高速の内廻りでBMWのK一○○とバトルして負けはしなかった。
 私はスロットを捻った。二本のキャプトン・マフラーから出る排気音は、ハーレーのそれよりもメリハリがあり、くぐもっている。
 スロットの下にあるネジを捻り、開度を一定に保つ。流れたガソリンはすでに蒸発していた。煙草を吸いながら、ザックをスプリングのシートに括り付け、ナンバーにガムテープを張った。