十 新しい石鹸
■ 昼過ぎにモーテルを出た。
昨夜買ったリザーブは三倍の値段がした。そういうものだろう。持って帰ることにした。途中、沿線のレストランで、トマトのスープとサンドイッチを食べた。
首都高速を天現寺で降りるといくつかの坂を昇る。
歩道に半分乗り上げてカマロを停め、自分の部屋に一旦戻ることにした。
風呂の壁に薄いカビがはえている。
浴槽の水を入れ替え、コーヒーを沸かし、留守番電話と郵便を整理して暫くぼんやりした。
「なんでこんなに汚い訳」
葉子が掃除を始めている。台詞まで同じだ。
携帯電話を呼び出すと、暫く鳴ってから晃子がでた。
「退屈で死にそうよ」
風呂に入ってからでかけることにする。下着を取り替えた。
芝浦の倉庫に着くと、葉子は部屋に入るのをためらった。構わずに入る。
「ドライヤーを忘れたのよ」
晃子は髪を縛っていた。口紅の色が新しい。昨夜も吉川がきて、ドアの外に眠っていたという。晃子が指さすと、「社に顔を出してきます」と書かれたメモがあった。字は旨い。
「あの人、昼間は普通のネクタイなのよ」
夜までは戻るまい。税関の傍のビルを確かめようと思っている。
ビルの名を葉子に尋ね、晃子を連れて外に出た。葉子は部屋に残った。
「二日ぶりに外にでたわ」
「風呂に入ったか」
「ええ、奥山さんが石鹸を持って来てくれたでしょ」
晃子はなんだか楽しそうだ。
「元町によってね。服をみるから」
Tag | 5.夜魚 41-50
「夜の魚」一部 vol.49
■ 私はウィスキーが飲みたかった。
この頃量が増えている。飲みながら胃薬を噛んだりしている。矛盾しているがそんなものだ。
フロントに電話をし、リザーブの小さな瓶を注文することにした。国産しかないというのだ。葉子が取りにゆく。
私はベットに座り、小さなショーツの上からジーンズを履こうとする葉子の後姿を眺めていた。脇のホックのようなものを掴み、腰を二三度振っている。
有線からマイルスが流れている。「昨日、夢をみたよ」という曲だ。ガーランドのピアノが淡々と響く。
わかったような気もするが、だからどうしたとも思っている。
何処かで都合が良すぎるような気がした。
出来すぎたことにはほとんどの場合嘘が混じっている。しかも、それはもっとも本質的な部分についてである。
私は、自分の仕事がどう旨く嘘をつくかで評価されるところがあることを思い出した。
肝心なことを伝えないのは嘘をついたことにはならない、そうした言い方をする同業者もいた。
トカレフは私の傍にあって葉子は追われている。
横浜新道のランクルは記事にならなかった。
調査を頼んだ晃子は襲われ、羽布団の倉庫で眠っている。
吉川とは何物なのだ。葉子の父も。
銀色の眼鏡をかけた奥山。あのセドリックは誰のものか。スタンドにいた残留二世の女はどうして鍵を持っていたのだ。
暴力革命だって。ともかくよして貰いたい。
私は何かに巻き込まれ、それが何なのかわからないことに苛立っていた。
その苛立ちには奇妙な静けさが含まれている。
眠っているだろう晃子のことがすこしだけ気になった。
私たちは寝なかった。
広く丸いベットの上で始めは離れ、それから背を向けて躯を斜めにした。
葉子は錠剤を噛み、暫くして私にもたれてくる。
「それを飲むと眠れるのか」
「うん」
「随分、眠れるのか」
「うん。普通のひとが飲むと、お昼過ぎまでぼんやりしているんだって」
葉子の横顔は幼女のようにみえた。
ベットの下に敷いてあるビニールが擦れて音を立てる。
隣なのか、時折女の細い声が聞こえてくる。
遠くからだと、夜を渡る鳥の声のようにも思えた。
葉子の寝息を確かめると、私は煙草を消し考えることをやめた。
「夜の魚」一部 vol.48
■「北沢という男に昔の女が襲われた」
「細いナイフを使い、二ミリ程の深さで、胸と背中に長い印をつけながら楽しむんだ。その筋の者にしちゃ随分出来がいいじゃないか。女に始末までさせている」
葉子は眼を開いた。女という言葉に反応したのだ。
「北沢の今の女のひとりなんだろう。よく仕込んである」
そこで言葉を区切った。ビールをちびりと飲む。
葉子は煙草に火をつけた。顔色は落とした照明に透けてみえる。
「昨夜は薬を飲んだのか」
頷いた。
「いつから飲んでいるんだ」
「追われる頃から」
葉子の声が別のものになった。低い部分が表にでている。
「抜けたのは四月。その時妊娠したのよ」
「銃は」
「いくつもあったわ」
「始めは知らなかった。横浜にもいくつか市民運動のようなものがあって、サークルはそこと連絡を取りあっていた。あなたは笑うでしょうけど、サークルはフェミニズムを研究するものなの。そこで従軍慰安婦のことが取り上げられていたのよ」
私は薄く笑った。お嬢様のお遊びもいいかげんにして貰いたい。
「その運動をやっている人たちの中に、CPPと関係のある人がいたの。CPPは募金を横流ししていた。私達が集めてきたお金を何処かに持ってゆこうとした」
懐かしい思い出を語るように葉子は言葉を並べていた。それからビールを一口飲み、グラスを置くと、
「あなたは晃子さんを愛しているの」
と、唐突に尋ねた。丸い瞳をしている。私は答えなかった。
「その事務所は何処にあったんだ」
「今はもうないとおもう。横浜の税関の傍のビルだけど」
「トカレフは何処にあった」
「一度だけ金庫の中を覗いたら、四角い箱に入っていたわ。わたしが持ってきたのは北沢のサーブのトランクから」
サーブに中国女か。なかなか良い趣味をしている。
「北沢ってのは背広を着るのか」
不思議そうな顔で葉子はこちらをみる。
「そうね、一度だけみたことがあるわ」
「夜の魚」一部 vol.47
■ 私はカマロのエンジンをかけた。アクセルを深く踏む。
途中、ひとつ前のベンツを直線で抜き、そのまま尻が流れ、ハイビームのまま信号を無視した。羽をつけた四駆のセダンが並んだので幅寄せをした。
奴はビビり、それ以後追ってこなかった。私は夜の峠をセカンド・レンジで走っていた。どうでもいいのだ。胸の底に、次第に凶暴な気配が溜まってくるのに気付いている。今までは一定の枠の中にいたのだ。
小高い山をひとつ越えると空港の灯りがみえた。
国を離れたいと願う男女は、このアジアにどれくらいいるだろう。
私は芝浦のスタンドにいた髪を束ねた女のことを思い出していた。彼女はどうして日本にきたのだろう。国籍や国境とは何なのだろう。
差別というのは何処の国にもある。
「ひとは生きてゆくために、海峡を渡る権利があるのだ」
そんなことを誰だかが言っていた。
半世紀前の戦争の時、大陸に残された日本人の数は数十万人だと言われる。
彼等は難民ではないが、国策に則った移民だった。棄民という呼び方すらある。
スタンドでガソリンを入れ、小便をし、カマロを国道沿いのモーテルに入れた。
昔、国際線のスチュワーデスを成田まで迎えにいったことがある。空港の脇のホテルで食事をし、高速に乗らずにモーテルに入った。
「冗談でしょ、うちの運賃はパンナムより高いのよ」
と、彼女は真剣に言う。一年半して彼女は成田の寮をでた。三田線の沿線に部屋を借り、自分で料理をつくろうと決めた。
「ねえ、自炊ってさ、どんなもの食べるのかしら」
そんな電話が偶にかかる。フライトの後、時間はまちまちだ。
モーテルのシャッターは半分しか閉まらなかった。
カマロは丸い尻を出している。ここで眠り、明日は芝浦にゆこう。私はカツ丼を取った。葉子もそれに倣った。
別々に風呂に入り、それからビールを抜いた。葉子は有線のチャンネルを廻している。
ドアーズがかかった。次はディランだ。次第にうんざりした気分が濃くなってくる。
「そろそろ話して貰おうか」
葉子は黙っている。表情がない。二分経った。煙草を消した。
葉子の傍へゆき頬を叩いた。
「夜の魚」一部 vol.46
九 鳥の声
■ 小さなスタンドをつけ葉子は床にしゃがんでいる。
片方の膝を抱えている。スタンドを眺めているようだ。私は低いソファに横になった。
私たちは口をきかなかった。説明するのが億劫だった。
こんな風に人生をあやまるんだ、といつものように考えた。
スープをすすり、ひとりで夜を過ごしたい。傍に居る女を眺め、本気でそう思っていることに気付いている。
いつの間にか私は眠っていた。
ソファの上で朝を迎えた。薄い毛布がかかっている。髭がじゃりじゃりし、顔は粉を吹いている。そう若くもないのだ。
昼が過ぎ、でよう、と言って外にでた。
葉子がカマロを運転した。低い排気音が室内に篭る。
県境の国道を過ぎ、低い屋根の続く工場地帯を抜ける。
右に曲がって十分程ゆくと海の傍に小さな展望台があった。
夏以外、誰も昇ることはないのだろう。手すりが白く錆びている。その先は平たい堤防になっていて、テトラポットが囲んでいる。空は黒くなりかかり波の音が大きい。
空き缶を探したが近くにはなかった。
私はトカレフを取り出した。コンクリの外れ、そのひび割れたところに照準をあわせる。十メートルない距離で八発撃って七発が外れた。
銃声は乾いた板を踏み抜いたような音がした。
こんどは掌が痺れることはなかった。
黒くなった空の低いところを、スポットを点滅した飛行機が離陸してゆく。向こうが空港なのだろう。一体何ワットあるのか。空に二本の筋ができ、海の方角に向かっている。堤防の外れは葦なのか、背の高い枯草が生えていて風が吹くと忙しく揺れた。
「北沢って男はなんなんだ」
葉子は答えない。
「横浜で何処にいった」
葉子の髪が逆立っている。風は海からくる。
「北沢の子を孕んだんだろう」
葉子が上を向いた。
「夜の魚」一部 vol.45
■ 橋の上から海がみえた。
それは囲まれていて、何処に続くのかわからなかった。続いているのさえ俄には信じがたい。
五速に入れっぱなしだとコーナーでふらつく。
雑誌のこと、銃のこと、葉子との関係のこと。吉川に尋ねることはいくつもあった。何処かでそんなことをしても無駄だと思っている。
私は晃子の胸の傷を思いだした。
残るかもしれない、と彼女はひとことも言わなかった。
どのような姿勢をとらされたのか、部屋には痕跡がなかった。
晃子が省いた言葉のいくつかもあるのだろう。
黒い道が続いている。次第に疲労が濃くなる。
横浜のホテルに葉子は戻ってこなかった。弾は二発使われている。
細かな雨になった。ワイパーが音を立てる。
古くなった潮の匂いがして、葉子のいるビルに近づいた。
「夜の魚」一部 vol.44
■ 私たちは紙コップで薄いコーヒーを飲んでいた。
奥山が一度外に出て、幾つかのものと一緒に持ち込んだのである。
「わたしが資料室の端末を操作したことが知られたのね。アクセスの記録が残ることを忘れていたんだわ」
晃子が言う。
「うちの社にもシンパはいる。裏で組織へ情報を流したり援助を行っているんだ。金が絡んでいる。フィリピンや中国ってのは、今じゃ共栄圏のひとつだからな」
吉川が言うと、どうしてかもっともらしい。
CPPは直接表面に出ないが、様々なかたちで日本の企業・団体に接近を謀っていると晃子が説明した。どのような形かは定かでない。公安も一定部分では掌握していて、慰安婦に関係する特定の団体が抗議行動をする場合、機動隊の車両が待機していることもあるという。背後に過激な組織が関与していることを薄々掴んでいるからだろうか。
何本煙草を吸っても一定のところからはみえなかった。
私は何を聞くべきかを忘れていた。吉川が箱を壊し、羽毛布団を取り出してきた。ドアの向こうで眠るという。
「大丈夫ですよ、あのひとは。見掛けよりも純情なんです」
奥山が言う。なんだかそんな気もする。携帯電話を晃子に渡し、私は東金に戻ろうと思った。後のことを頼んで階段を降り、BMWに戻ることにした。
「夜の魚」一部 vol.43
■ 千葉へ続く背の高い橋がみえている。
港は狭くなり、その脇にはクロームと模造大理石が貼られたビルが幾つも並んでいる。
この辺りにビルができ始めたのはここ数年だ。中程はいつも空いている。夜になっても蛍光燈がつかない。倉庫はその一角にあった。隣接する比較的広い駐車場に車を駐め、四階までの階段を私達は昇った。吉川が晃子の荷物を持った。
「エレベーターの電気がないんだ」
吉川が振り向きながら言う。中に入ると段ボールが無数に詰まれている。
「売れ残った羽毛布団だ。ここなら匂いもない」
廊下のようなものを進み、一番奥の部屋の鍵を開けると、そこは整備された個室になっていた。見たところ、普段泊まるビジネスホテルよりまともかも知れない。簡単なソファとカーテンで仕切られた奥にベットがある。
「まあ、ここに居るしかない訳ね」
晃子は黒いビニールのソファに座り脚を組んだ。もういいんだ、という顔をして窓を眺めた。芝の方角、タワーからはだいぶある。
「さっきの女は残留二世でね、北京の大学を出ている。結婚もしていたようだが、別れてこちらにきているんだ」
吉川が説明する。スタンドの女のことを言っているのだろう。
「暫く前まで銀座でホステスをしていたが、今はそうした二世の連絡係のようなことをやっている」
「吉川さん、だいぶ通いましたね」
「うるせえんだよ」
私は奥山のがっしりした腰のあたりを眺めていた。とりあえず、こいつに任せておけば良いだろうという気になった。
「それはそれとして、なんで銃の弾を持っているんだ」
「そんなものは幾らでも手に入る」
吉川はうそぶいた。
「昔、俺はあの辺りで捕まったんだ」
吉川は窓から細い運河のようなものを指さしている。誰もきいていない。もういいんだよ。
「夜の魚」一部 vol.42
■「こいつはうちの社のものじゃない。だから安心していい」
吉川はそう言った。
私は階下にコーヒーを注文することにした。三角のカップで、濃いコーヒーが運ばれてくる。角砂糖がふたつ付いている。
「トカレフは丈夫ですが、消耗品だと考えた方がいいですね」
奥山という男が言う。私達はコーヒーをすすった。胃の奥を探るような気分だった。
「実は、隠れる場所がいるんだ」
「どういうことだ」
吉川が大きな目を光らせる。
「女なんだ。葉子じゃない」
私はきしむ階段を降り、車に戻って晃子を案内した。吉川は暫く黙って晃子を眺めていた。
「北沢という男を知ってるか」
話しかけても吉川には聞こえない。
「芝浦の倉庫はどうです。あそこなら管理用の部屋が空いている」
奥山が促して、私たちは車に分乗することになった。
山手通りを横切り、青山から広尾へと抜け道を通る。奥山の運転は危な気がなかった。丸くなる前のセドリックで先行する。
「どうでもいいけど、寒いのはごめんだわ」
晃子は化粧したジプシーのような横顔で煙草を吸っていた。
産業道路に入り、スタンドに寄る。
モノレールの橋桁の間から店に入った。奥山は指を立て、三十リッター入れるよう指示している。
髪を後ろで束ねた女がガラスを拭いている。断片的な言葉で、日本人でないことがわかった。夜は寒いのだが、短いスカートを履きタイアを確認している。三十手前くらいだろうか。金を払いながら奥山が何かを受け取っている。鍵のようだ。
「夜の魚」一部 vol.41
八 スィング
■ 劇場の地下に車をとりにゆき、マンションまで引き返して晃子を乗せた。荷物は横にしてトランクに入れた。
細い路地を曲がってビリヤード屋の傍に車を停める。晃子には暫く車の中にいてもらうことにした。
二階にあがると吉川は既に来ていた。赤い玉を右手にもち、太い指先で廻そうとしている。彼は黒いスーツに蝶ネクタイをしていた。腹をつき出し、全てがわかっているといった様子を見せた。
「もうひとり連れて来た」
壁の傍の古い椅子に、灰色のスーツを着た三十代の男が座っていた。私よりすこし年下のように思えた。髪をきちんと分け、度の強そうな銀色の眼鏡をかけている。
「拳銃と格闘技、それから哲学に詳しい」
「よろしく、奥山です」
近づいて挨拶をする。どう判断するべきか暫く迷った。迷っている段階ではないことも知っている。
「俺は運転できないしな」
吉川はその腹を無意識に撫でている。店に他の客はいない。一時のブームは去ったのだろう。台が三組あって、その上には真鍮の傘のスタンドがぶら下がっている。一階には髪をポマードで撫でつけた、その世代からすると背の高い店主がいて、いつもラジオを聴いていた。テレビでないのをいぶかると、あんな下品なもの見られますか、と笑われたことがある。