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「夜の魚」一部 vol.30

 
     六 目線なし
 
 
 
■ 葉子は髪を切っていた。
 肩までのものを更に短く、ほとんど私と変わるところがなかった。驚いた様子もなく私を部屋に入れる。
「毎日、海をみていたわ」
 何もない部屋だ。サイドボードだけは大きく、古いウィスキーが何本か置いてある。
「冷蔵庫の氷だけど、飲むでしょ」
 一杯だけ貰うことにした。バカラのグラスは重い。鉛が入っているからだ。
「さてと、説明してくれよ」
「あなたはいつも女に説明を求めるの」
 葉子はきいた風な口をきいた。
 私は鞄から雑誌を取り出し机の上に置いた。
 カマロのシートにあった皮の鞄には、メモと一緒に一冊の雑誌とビデオが入っていた。高速の駐車場で中を開けたのだ。誰でもが買える雑誌で、投稿された写真が載っている。男が数人ひとりの女に絡んでいる。去年のものだが、御丁寧にその部分は折ってあった。目線もなく、髪の長い葉子だった。
 私はその部分を開いた。
 葉子は横を向いた。

「夜の魚」一部 vol.29

 
 
 
■ 外は雨になっていた。駐車料金を二万もとられたことに腹を立てた。
 どうもZ28のようだ。信号で少しアクセルを踏むとそれだけで尻が流れている。
 品川埠頭の外れから湾岸線に乗る。キックダウンしないようゆるゆると車を走らせた。途中、人気のない駐車場で小便をし、何をしているのか自問した。手は洗わなかった。
 東金で高速を降り細い道をいくつか抜けた。
「ホルモン」という黄色い看板のある店で塩ラーメンを食べ、海の傍まで出た。玄関のタイルがいくつか剥がれたマンションが建っている。
 見上げると、ほとんど灯りはない。駐車場には銀色のセダンが一台駐まっていた。
 埃っぽいエレベーターに乗り、十二階までゆくとチャイムを押した。三度鳴らしノックをして名乗った。
 チェーンが開けられる。葉子はそこにいた。

「夜の魚」一部 vol.28

 
 
 
■「ひとりで遊ぶってのも楽しいもんだぜ」
 男は顔を不器用に歪め、背中に手を廻すと畳まれたモロゾフの紙袋を私に差し出した。
「弾と鍵だ。車は西銀座の駐車場にある」
 痩せていないのが不思議だった。歯も白い。
「どういうことだよ」
「訳がわからないことって、まだあるんだぜ」
 そう言って男は黒い毛糸の帽子を目深にかぶった。それでも笑っているらしい。
 電光掲示板に、消費税率を上げる法案が衆院を通過したと流れていた。
 暫定、と続けて書かれている。この国が、生きているだけで税金のかかる仕組みになって随分になる。
 私は時計台の前、四丁目の交差点を渡り人混みを越えた。警官が立っている。階段を降り、黄色い電球の地下にもぐった。
 指定されたブロックを捜す。一番奥まった一角に車があった。
 
 クリーム色の、丸目のカマロだ。
 なんだか溜め息がでる。これでどうしろっていうんだ。
 重いドアを開け、それは案の定下がっていたが、エンジンをかけた。馬鹿みたいにでかい音がした。ハンドルは小さく、黄色い目玉、「ムーン」のホーンリングがついている。
 ボンネットの上にバルジがあり、蓋がしてある。ガラスの汚れから車自体は暫くここに置いてあったようだ。オイルが廻るまでの間、ウォッシャーでガラスを洗った。
 右手のシートの上に皮の鞄があった。外側のポケットに簡単な地図とメモ、携帯電話が入っている。中には充電器もあるようだ。
「東金に葉子はいる。アルピーヌもあるのだが貸してやらない。銃はそろそろ分解しろ」
 メモにはそうあった。こういうメモを残す男の年齢を当てるのは簡単である。あの頃の残りなのだ。

「夜の魚」一部 vol.27

 
 
 
■ 次の日の夜、私は感熱紙の指定に従い東銀座の地下道を歩いていた。
 この先どうなるのか、確かめてみようという気分になっている。
 昨夜受信したファックスには、時間と場所だけが活字で書かれていた。
 プラスチックの広告版に挟まれ、家のない男達が横になっている。ペットボトルを傍らに何本か置き、積み上げた週刊誌を真剣に読んでいる者もいた。
 五つ目の柱の角、段ボールを尻の下に敷き、口を開け天井を眺めている男がいる。いくつもの紙袋を廻りに置き、黒い帽子からはみ出た髪は見事に横を向いている。男の眼は大きい。
「あんただよ」
 呼ばれて傍によった。男は指を顔の前で動かしている。紫色の毛糸が太い指に絡んでいる。あやとりをしているのだ。

「夜の魚」一部 vol.26

 
 
 
■ 部屋に戻ると机の上に鍵をおいた。
 いくつもの迷いがある。
「ミントのアル・ヘイグ」と呼ばれる名盤が先程復刻された。彼はB級スタンダードを、独特の物言いで一定の水準にまで高めるのが旨かった。
 ドライブがかかる。アカルガナシイ音色で先を続ける。
 私は晃子から渡されたコピーの束をぱらぱらと捲った。
 社内のデーター・ベースから引っ張ってきたものが主で、晃子はサーチャーのようなことをやったのだろう。
 従軍慰安婦の問題は広範囲に及んでいて、打ち出された関連文献のリストだけでも相当な数になっていた。新聞では、韓国やフィリピンの抗議団体が、「民間募金ではなく政府の責任で」と主張していることが報じられている。非政府組織、民間基金などを使って補償をすることは戦争責任の回避に繋がるということらしい。
 抗議団体はいくつもある。そのどこがCPPと関係しているのか、どのような手口なのか、一読判断はつかなかった。そもそもCPPとは何なのか。
 私には関係がないと思おうとしたが、割り切れないものが残った。
 
 トカレフは私のところにあって弾倉は空だ。
 始めて銃を撃った。撃てるものだなと思う。
 横浜新道のランクルはまだ記事になっていなかった。単なる事故として扱われたのだろうか。唇を噛んでいた葉子の横顔が思い出される。
 煙草を何本も吸っている。
 舌がざらざらしている。棚の酒瓶に眼がゆくのだが、飲むべきか迷っていた。
 ベットの下に置いてある古いファックスが鳴いている。
 音を絞ってあるので遠くから聞こえてくる。
 カタカタと暫く揺れては静かになった。

「夜の魚」一部 vol.25

 
 
 
■ 九年前、私はいつもそのような眼で彼女にみられていた。
 コンタクトを装着していると、泣いたような黒い瞳だ。
 半年程彼女と暮らしたが、私は別の女のところに入り浸り、次第に帰らなくなった。私達は別れ、二年ほど経つと彼女は年の離れた男と結婚をした。それも二年ほど続いたのだろうか。離婚をし、元の仕事を続けている。
「それが糸口なの」
 カチリと音をさせ、細いライターで煙草に火をつけた。
「ともかく、その葉子って娘が危ないわ」
 彼女はバックから鍵を出し、テーブルの上に置いた。
「部屋はふたつあるから」
 私はトカレフのことは言わなかった。葉子と寝たことも、拾った時に流産らしき按配だったことも。
 彼女は私をみつめ、
「彼女を愛しているんでしょ」
 と、言って笑った。名を晃子という。
 笑うと大きな眼の傍にくっきりした皺が入る。

「夜の魚」一部 vol.24

 
 
 
■ 夜になった。
 私は通信社に勤めている女の友人を待っていた。
 女も三十を過ぎると、ショールを肩に巻くようなことはしない。
 表通りから一本奥に入ったホテルの十五階まで昇り、ほの暗いボックスに座った。
 グラスに軽く口をつけ、彼女はいきなり言う。
「あなた、何に巻き込まれたか知ってるの」
「狙われたんだ」
「バカね、殺されるかもしれないのよ」
 確かにそうだった。
「CCPの幹部、エドゥアルト・キトリアーノがね、この間逮捕されたの。そこで、JRA、〈日本赤軍派〉と関係があることをフィリピン国軍は公表したわ」
「あの、〈赤軍〉か」
「そうよ。そこでね、重信房子と連絡を取り合っていること、九○年スイスで発覚した総額百六十万ドルの偽金づくりに関与したこと、八七年、香港を拠点に〈一般基金〉という資金づくりプロジェクトに参加したことなんかがフィリピン国軍の手によって公表された訳」
 彼女はそこまでを一息に言うと、探るようにこちらをみた。私は黙っていた。何を言って良いのか判断がつかないのだ。
 
「みなさいよ」
 彼女は一枚のコピーを渡す。
「タイのバンコク・ポスト。オランダ政府の対外援助金がフィリピンの労組を通じてCCPに流れた訳。オランダでは国会で問題になったわ。CPPのシソン議長はオランダに逃亡しているのよ」
「日本にもいるのか」
「あなた、鈍いところはちっとも変わらないわね。第一、その葉子って娘の口からでてるじゃない。CCPの今の資金獲得の対象は日本とオーストラリアなの」
 わかったような気がしたが、何処かで霞がかかっている。
「じゃ、なんでボランティアにかかわるんだ」
 彼女は呆れた顔で私をみた。
 中心には黒い瞳がある。

「夜の魚」一部 vol.23

 
    五 あやとり
 
 
 
■ 午後になって事務所を抜け出し、近くの図書館にいった。
 調べようにもとりとめがなく、どう繋がっているのかわからない。
 六本木の放送局、報道にいる友人に電話をした。
「革命だって、なに寝ぼけてんだよ」
 奴は千葉に家を持っている。新しいドイツ車で駅まで女房に送らせる。
 昔、万年筆の宣伝で名をはせた眼鏡の男が、暫く前迄レギュラー番組を持っていた。
 有名人が沢山出てきて、大人の漫画も放映されている。
 ゴルバチョフが監禁された旧ソ連のクーデターの際、モスクワにいた駐在員がくたびれたワイシャツに同じネクタイで報告をしていた。
 眼鏡の男がそれを揶揄する。
 テレビマンとしては失格だと番組の中で言う。
 若い駐在員は、明らかに不満な顔をしながら黙っていたことを思いだした。

「夜の魚」一部 vol.22

 
 
 
■ 私達は口をきかなかった。
 そんな理不尽なことで狙われるのはまっぴらだった。
 細い道をいくつか越え、小さな駅の前に出た。不動産の看板が目立っている。
「ここでいいわ」
 葉子が車を降りた。泣いた後のような眼をしている。唇を噛んでいる。泣いた訳でもない。私は言われるまま葉子を降ろし、ガラガラ鳴る車をだらしなく東の方角にむけた。
 途中、自動販売機で短い缶を買い、一気に飲んだ。車に戻ってから思い出し、タオルでトカレフを拭い、丸く口をあけたプラスチックのゴミ箱に捨てようとしてとどまった。
 手首が痺れ、親指の付け根の皮が剥けている。
 私は部屋に戻って眠れなかった。
 単気筒の音がして、新聞がくる。カーテンが白くなって、床の埃が目立つ。葉子がかじっていた薬がその時は本当に欲しくなった。
 私は怯えているのだと思った。

「夜の魚」一部 vol.21

 
 
 
■ 坂の終点で料金を払い、暫く走って葉山の海岸に車を入れた。
 海自体は静かであり、軽い鉛のようにもみえた。葉子は煙草を欲しがった。二口ほど吸って溜息をつく。
「触ってみて」
 胸元から手を入れると油を塗ったように湿っている。
「いったいどうなってんだ」
 私たちは車を降りた。雲の影から月が出ていた。折れたのは安っぽいバンパーではなく、突き出したマフラーだった。くの字に曲がって垂れ下がっている。
「CPPっていうのがあるのよ」
「なんだって」
 フィリピン共産党を名乗る武装集団がある。
 もともとは一九三○年に創立されたフィリピン共産党、PKPに端を発する。PKP自体は非合法とされながらも当時の米軍ないしは日本軍に対し、ゲリラ活動で抵抗を続けていた。
 しかし、戦後のCIAによる弾圧の中で、PKP自体は旧ソ連にならい、マルコスとも手を繋ぎ国民の支持を失ってゆく。一九六八年、シソンを中心として新しいフィリピン共産党、CPPが再建される。毛沢東の誕生日、十二月二十六日のことだった。
 葉子はそこまでを一気に話した。
「習ったのか」
「調べたのよ」
「それがなんでランクルなんだ」
「CPPは日本にも入ってきてるの。CPPの武装組織がニュー・ピープルズ・アーミー、NPAというのよ」
「さっきのランクルがそうだっていうのか」
「そう、CPPは毛沢東思想に固まった暴力革命を至上とする組織なの」
「革命だって」
「そうよ」
 月が隠れ、私には葉子が遅れてきた紅衛兵のようにみえた。