死の棘

 
    死の棘。
 
 
 
■ 人の精神というのは、極めて微妙なバランスの上に成り立っていて、些細なことをきっかけにその均衡が破れてしまうものだ。
 何処からか幻の声が聞こえてくる。
 現実と虚構の区別がつかなくなってくる。
 頭の中に何人もの個人が棲んでいて、ひっきりなしに話し掛けてくる。
 いわゆる急性分裂状態なのだけれども、そうした訴えを聞いていると、遠いの国の神話を読んでいるような気になってくる。
 何処へゆくのだろう。
 戻るのだろうか。
 

クルセイダーズ

 
    クルセイダーズ。
 
 
 
■ のテープを聴きながら、恋人と寝るのが流行ったことがある。
 嘘だけれども。
 
 
 
■ 新横浜のあたりで事故があった。
 尻下がりの白い車が、脇から来たハーレーを引っ掛けたらしい。
 Rのパトカーが斜めに停まり、暗くなりかけたアスファルトに痩せた男がうつぶせに倒れていた。
 ハーレーは、フロント・フォークがすこし長く、男の大分先で仰向けになっていた。
 ディスク・ブレーキのキャリパーに穴が開いている。
 一瞬、ネオンが反射したかにも視えた。
 

顔を剃る

 
    顔を剃る。
 
 
 
■ 先日、顔を剃ってみた。
 坂下のスーパーで、女性用の剃刀を買った。
 知らなかったのだけれど、色々な種類がある。
 血だらけになる方法もある。
 
 
 
■ ケチをして、箱に入った安いのを使った。
 頬を剃ると、横に外れて、赤くて細い筋が入る。
 風呂で作業しているものだから、だらだらと続く。
「いかんよなあ」
 と、私はすこし反省をした。
 女性はどのようにしているのだろうかと、いぶかしかった。
(そのうち続く)
 

ここへ来ても石鹸はないわよ

 
    ここへ来ても石鹸はないわよ。
 
 
 
■「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の中の台詞だった。
 ニコルソンが、スタンドの女房にコナを掛ける。
 ギリシャ人の妻、ポーラ。
「今日は、特別いい匂いがする」
「ドアをしめたの」
「うん、そうらしい」
 台所での営みは刺激的だった。
 背中に立てる爪。
 大不況の後のアメリカは、すこしだけ野蛮だった。
 ニコルソンはハゲていた。
 

リズムから

 
    リズムから。
 
 
 
■ 指先を眺めていると、
「ああ、彼は女性が好きではないのかも知れないな」
 と思えるようなジャズ・メンがいた。
 すこし、指が遊んで、ためらってから鍵盤を押す。
 間の取り方が個性なのだけれども、何人かで演奏していると、音が後ろに隠れてしまうようだった。

■ 外は薄い雨だし、部屋には紫の花もある。
 酒も飲んだし、障子も新しい。
 でも割り切れないので、失恋の歌を聴いた。
 マット・デニスという人で、ピアノを弾きながら歌をうたうのです。
 旨くもないし声量もないけれど、くり返し聴けるのは、野暮ではないからだと私は思っている。
 

かいもの

 
    かいもの。
 
 
 
■ 紫色のトレーナーを買った。
 刺繍が入っているやつで、ゴルフの時に着るのだという。
 定価の5分の1の値段だった。
 ま、よろしいんじゃないでしょうか。
 ゴルフはしないけれども。
 服は着る。
 

指輪

 
    指輪。
 
 
 
■ 夕方の地下鉄で、隣に座ったOLが本を読んでいた。
 熱心に読みふけっている。
 カバーがかかり、文庫ではなく、細かな字面が並んでいる。
 横顔は、昔知っていた女性に似ていた。
 二十五くらいだろうか。
 眺めると、本の余白に、その章の題目が書いてあった。
「バランスを保つには」
 すると、左の薬指に小さなダイヤの指輪があった。
 

沈没について

 
    沈没について。
 
 
 
■ 二日酔いは大人の味だ。
 後悔が捻じれながら胃袋の辺りを徨っている。
 
 
■ よろめきながら階段をおりるとき、浮浪者のひとと眼があった。
 むこうがニヤリとするので、こちらもつられた。
 このまま沈没するのかなあ、と微かに思いながら、連れの後を歩いてゆく。
 それからどうなったのか。
 どうもならないが、生きているのって恥ずかしいなあ。
 と、二日酔いが続いている。
 

キスより簡単

 
    キスより簡単。
 
 
 
■ なんだろうか。
 何がだろうか。
 いかん、夜が明けてきた。
 
 
 
■ 夏の夜は短い。
 短い夜にするべきことはなにかしら。
 眠ることだけでなく、そして、話すことだけでもなく。
 

道具について

 
    道具について。
 
 
 
■ 昔、フランス製の使い捨てライターを使っていた。
 楕円形の奴ではなくて、丸い形をしていた。
 銀座のデパートなどにゆくと、今でも売っている。
 たまには買うけれど、近ごろではどうでもよく、その辺にあるものを使っている。
 忘れるので、あちこちにばらまいている。
 
 
 
■「死刑台のエレベーター」の中で使われていたのがダンヒルだった。
 あの音には狂いがない。
 随分昔、学生のバイトから本業になったホステスの女友達が、
「煙草をつける音でその男のランクが分かるわよ」
 と言っていたことを覚えている。
 車のようなものか。
 今となっては、すこししゃらくさいような気もするが、その時はそうは思えなかった。