「緑色の坂の道」 Early Essential
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You can spend most precious time of your life time.
じっとする。
■ 時々、じっとしていたいなあと思うことがある。
私はそう若くはないが、変に疲れている時など、なるべく動きたくないと漠然と思うことがある。
代わりに努力して貰っても良いのだが、最後までそれを続ける訳にもゆかない。
■ 理想は「じたじた」進むことで、ホフク前進の構えを取ることになるが、時々バレて、
「無理しなくていいのよ」
等と言われることになる。
それにしても、その時の横顔というのは妙に一致しているのが不思議だ。
唇だけが笑っているのである。
痺れた後。
■ 痺れてもいいや、と思うことは「愛」だろうか。
我慢しながら、あるいはヤケクソで、比較的長い時間努力することは、長い人生には時折必要だと言われている。
■ 随分前のことだ。
初めて女のできた友人が、電話を掛けてきた。
「なんだよ」
「いや、二時間首を突っ込んでいたら、ダメになった」
「ほいで、相手は」
「疲れて、寝てる」
雑誌にそうしろと、書いてあったんだそうだ。
痺れる。
■ 舌が、である。
■ どういう按配なのか、説明せよと言われても返答に困る。
個人差もあるが、体調と、月の満ち欠けと、具体的な方法によってその味は微妙に異なってくる。
■ 途中でその旨を告げると、そんな筈はナイと言い張る。
試してみるように示唆すると、指をくわえて眼を見開いていた。
ま、人生とはそんなもんだ。
指五本の巻。
■ と、先の本から連想を広げる。。
つまり男性のマスターベーションのことを指す訳だが、それは何処となくナサケナイこととして描かれている。
「私は江戸川柳の研究書をつくろうとしているわけではないので、分からないことはそのままにするつもりだが、考えるだけはしてみよう」
と、投げやりな姿勢であちこち連想が飛んでいるのであるが、簡単に流れを説明してみる。
江戸時代の川柳には、男性のマスターベーションの話は出てこない。
それは何故かと言うと、男子のコケンにかかわるからだ、と言い切るとあちこち矛盾が出てくる。
例えば、さまざまな器具を使うのは良くて、ある時は誇らしく、毎回死にそうになるほどである、とある。
「では、なぜ器具は許され、手は男としてナサケナイのか」
と、吉行氏は提起されているのだが、「江戸の前近代性」ということを軸として話があちこちに飛ぶ。
■ ま、どうでもいいのであって、実際に本を手に取って配偶者の寝た日曜の夜などにちびちび読んで戴きたい。
何が言いたいかというと、男というのは妄想の生き物で、しかもその妄想は独立した人格を持っているのだなあ、ということなんである。
指二本の巻。
■ 吉行氏の「あの道この道」という本からすこし引用してみる。
入口で医者と親子が待っている
難解だが、薬指・親指・小指と考えればよい。残りの二本が内部で活躍中というわけだが、昔は二本に決まっていたようだ。
このごろは、フィスト・ファッキングとかいって、拳固を入れてしまう。十九世紀の世紀末は、憂愁・倦怠の時代であったが、二十世紀末にはガバガババカバカと無茶が流行るかも知れない。
(吉行淳之介「あの道この道」光文社文庫:53頁)
■ ま、この本は、江戸時代の古川柳のばれ句を、吉行さんの流儀で甘酸っぱく解釈したものである。
面白くて、時々読み返しているが、ここまで書いてもいいのかなあ、と投げやりな姿勢が男らしくて好きだ。
苦労した末のことだろう。
■ ところで、指二本というと、いわゆる「ツー・フィンガー」ということである。
すこし前に村松氏の宣伝で流行ったことがある。
「ツー・ヒンガア」と、すこしなまって言うのが宜しいかと思う。
遅れてくる音。
■ 夜の高速を走っていると、左右に花火があがった。
田園の、平野の、小高い山のふもとから、時折打ちあがっていた。
パーキングに車を入れて、ぼんやり眺めている。
完全な円を描いている。
消えて暫くすると、太鼓を叩いたような音が届いた。
夏が終わる音のように思えた。
中がひろい。
■ 上の方が、なにやらとりとめない気配がする。
どちらを向いたら良いのか、分からない。
支えるものがない。
仕方なく努力していると、反対の意味だと思われることもあり、困る。