不感帯 6.
 
 
 
■ さてこの辺りから、話はそう簡単に割り切れるものではない、ということが分かってくる。
 実は反戦思想を抱いていたのか。当時のソヴィエト、コミンテルンからの思想的影響はどうだったのかなど、掘りこんでいけば長いものになるのだろうが、それも野暮であるし、柄ではないのでやめておこう。傾向映画の系譜などについても同じである。
 ひとつ面白いと思ったのは、先の「静身動心録」および「一つの世界」双方とも、今回の戦争の技術的特長について、かなり力を入れ分析らしきものを試みているところだった。
 曰く、航空機の威力について。
「要するにこの戦争で飛行機の性能と破壊力が頂点に達したため、地球の距離が百分の一に短縮され、短日月に大作戦が可能になった。それで地球上の統一ということがずっと容易になったのだ。そのかわり、現在の日本くらいの程度の生産力では真の意味の独立が困難になってきたのだ」(伊丹万作「一つの世界」)
 

 
■ 梅雨の終わりの不安定な雲の下、私はふと石原莞爾の「世界最終戦論」(発行1942年)を思い出していた。
 これから生じるだろう最終戦争では、飛行機や大量破壊兵器によって殲滅戦略が実施され、比較的短期間のうちに戦争は終結することになるだろう。世界は四つのブロックに分割されていて、その中で我が東亜が生き延びるためには。
 次の戦争は航空決戦になること。大量破壊兵器が勝負の推移を決すること。
 当時の少年向け雑誌に挿絵入りで掲載された「最終秘密兵器」を彷彿とさせるかのような、一定の軍事的分析と予言の果てに、半ばアミニズムにも似た宗教的要因が色濃く覆いかぶさってくるといった、独特の熱気と魅力をもった奇書である。
 確か中公文庫から再刊されていて、書棚の中に埋もれている筈だ。
 これを当時、少し知恵の付きかかった生意気盛りの青少年が読んだら、早速志願したくもなるだろう、と思ったことを覚えている。
 
 
 
■ 伊丹万作が、石原莞爾の著作を読んでいても不思議ではない。
 石原の著は1942年に出されたが、講演はその数年前に行われていた。
 読んでいなかったとしても、それらの主張は、包括して時代の空気の中に含まれていたのではないかと私は想像している。
 満州事変勃発が1931(昭和6)年。
 世界がブロックに分かれているというのは当時常識であったし、これからは航空機の時代になるというのも、開戦前から一部では主張されていた。
 満州映画協会設立が1937(昭和12)年。「新しき土」公開の年である。
 七つボタンは 桜に錨(作詞:西条八十)
 予科練の制服が水兵のそれではなく、丈の短い士官に類したものに変えられたのは、実にミッドウェーで大敗北を帰した直後のことである。
 消耗した飛行兵を補充しようと官民一体となった宣伝が展開されたのだが、例によってミッドウェーの敗北自体は国民には知らされていない。
 映画という、20世紀に発明された当時最先端のメディアの最中にいた伊丹監督が、そうした時代の空気、風潮に無自覚であったとは思いにくいところもあった。