一世行人 5.
 
 
 
■ 井上靖さんが調査時に参加した二体のミイラは、いずれも内臓を抜かれていなかった。せいぜいが燻製法によって燻されたものである。
 しかし明治に入ると湯殿山界隈における即身仏、ミイラ仏の成り立ちは次第に変貌し、ある種のピークを迎えていく。
 鉄門海上人の没後ほぼ40年。明治期になって作られた鉄竜海上人の即身仏は内臓が抜かれ、中にびっしりと石灰がつめられていた。
 腹は横一文字に斬られており、麻糸で結ばれている。
「寺男の丸山と炭屋のトウジロウの二人が上人の遺体を嵐の夜、墓から取り出し、(略)へ運び、そこで内臓を摘出、遺体を背負って五里の山坂を越えて(略)寺へ運び、天井からつるして乾燥させた」(松本昭:「日本のミイラ仏」18頁)
 
 
 
■ 寺伝では明治元年(1868)に鉄竜海上人は亡くなったとされているが、学術調査隊歴史班の調べでは明治11年である。
 この辺りの松本昭さんの筆は、さすがに元ジャーナリストというところで、いかにもセンセーショナルなものである。前述の書籍ではこの辺りが冒頭に来ている。
 西洋医学を学んだものなら縦に斬るはずを、横一文字に斬っているところ。
 どうも炭焼きや寺男だけの仕事ではなさそうだというところ。
 封建社会、身分制度の最下層にいたとされる人々の関与を示唆する声もあるが、それも憶測だろうか。
 没年の操作は、明治初年の「墳墓発掘禁止令」が直接には影響しているのだけれども、同時に、いわゆる「神仏分離令」および「廃仏毀釈」によって出羽三山が大揺れに揺れていた時期でもあった。
 加えて、江戸以来続いていた羽黒系と湯殿系の対立。
 明治以後、出羽三山の修験は、神系と仏系に分離していく。