一世行人 2.
 
 
 
■ 内藤正敏さんの「日本のミイラ信仰」(法蔵館:1999)によれば、東北即身仏を生み出した寺の構造は、山内、僧侶、一世行人の三つである。
 運営権を握っていたのは山内で、山内衆、宗徒、山内修験などと呼ばれた。
 
「彼らは半僧半俗で(略)普段は生業を持ち、参詣人(道者)がくると、祈祷や山先達、宿泊などの世話をした。そのため(略)、収入が保証されている上に、妻帯世襲が許されていたので、財産も蓄積されて裕福であった。したがって経済的に安定していた山内からは、一体の即身仏も生まれていない。
 僧侶は、最上氏が没落したのち、家中の浪人武士などを剃髪してとりたてたが、読み書きができたので、それなりに優遇された」
 
「一方、一世行人は寺男のような存在で、掃除や炊事、蒔づくりなどの雑用をはじめ、御札つくりや祈祷の手伝いなどの下働きをさせられた。多くは出身階層も低く、なかには前科者や流れ者もいた。湯殿山系の即身仏になったのは、すべて一世行人である」(前掲:近世の土中入定伝説と即身仏:99頁)
 
 
 
■ 一方、昭和35年の「出羽三山ミイラ学術調査団」を采配した松本昭さんによる「日本のミイラ仏」(臨川選書:1993)にはこう書かれている。
 
「中には殺人犯など、到底、まともに生きていけない人もいた。だが、その殺人犯ですらも一世行人を志願すれば、世の尊敬を受け、金品が集まるので、京都の醍醐寺三宝院へ奉加金を納めれば上人位を与えられた。行人では単なる寺の雑役夫に過ぎないが、上人は立派な僧侶なのである。これは、いわば暗い封建時代での一種のサクセス・ストーリーといってもいいだろう」(前掲:39頁)
 また、羽黒修験研究の権威、戸川安章氏が端的に「羽黒行人は湯殿行人と同様、生涯妻帯はしなかったが、生活がずっと豊かだったからミイラを作らなかった」と述べたことも記されている。
 
 
 
■ かなり即物的なお話である。
 当時の警察権が町方と寺社に分かれていたこと。寺に駆け込めばとりあえず追求を逃れることができたこと。没落した武士、あるいは武家の次男三男などがその知識性ゆえに優遇されたり僧侶となったことは、江戸期に流行りそして廃れていった虚無僧(普化宗)などを思い出させる。
 背景にあるのは社会の、とりわけ経済の構造である。