砂の岬 5.
 
 
 
■「砂の岬 4」に出てくるラジオは、「国民ラジオ301型」と呼ばれたものだろう。
 価格が35ライヒスマルクにまで下がると、普及は400万世帯から1600万世帯にまで増加した。301型というのは、ナチが政権についた1933年1月30日を意味している。宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルスはラジオのことを「最先端大衆看過装置」と呼んでいた。そのものずばりの命名である。
 英国BBCが対独放送を行っていたことは知られているが、一方ロンドン市内の空爆に際しても、比較的正確な情報を自国市民に公開していたと言われている。 
 
 
■ これはナチス時代のドイツも同じことで、ロバート・ジュテラリーの「ヒトラーを支持したドイツ国民」の日本語版裏表紙にはこうある。
 
「政府が『非社会的分子』や外国人労働者を排除することを、国民の多くは誇りとし、積極的に協力した。一方でヒトラーは『敵』には容赦ない強制手段をとりながら、国民を味方につけることには最新の注意を払った。
 情報操作を徹底し、事実を隠すよりは公開したのである。
『強制』と『同意』は一貫して縺れ合っていた」
 
 
 
■ 訳者の根岸隆夫氏は記している。
 
「合意と強制の相互関係のなかで、ゲシュタポの恐怖政治が効果的にはたらいたのは、庶民が自発的にもたらす密告によっていた。この密告症候群は、戦争末期になっても週に千通の割合でヒトラーのもとに送られてきた手紙の内容がほとんど密告だった事実が雄弁に物語る。
 このドイツ国民の支持の度合いを数字化することはできないだろう。
 ゲシュタポその他の治安機関の書類は、ナチ自身による破棄や連合軍による爆撃によってほとんど破壊された。生き残った証人のほとんどは加害者側で、保身のために沈黙する。戦後、多くのSSやゲシュタポはドイツ連邦警察庁、州警察、情報機関の幹部に納まった。
 (略)密告の大半はナチ・イデオロギーとは無縁で、私利私欲私怨にもとづいていた。密告者はゲシュタポを利用し、ゲシュタポは密告者を利用する、持ちつ持たれつの関係だった」
(前掲;322頁;概要)