影について。
 
 
 
■ 先にヒトラーのことを書いてしまったので、続けにくい。
 ここで確認したのは、ナチズムの中核はヒトラー個人の「憎悪」であったという小林秀雄の直観である。
 それが政治学または社会学的に正しいかどうかは別として、この直観には鋭いものが含まれている。様々な思想とはまた別の次元で、すとんと胸に落ちてくる。
 
 
 
■ ルサンチマンから出発した活動は、一定のところまでいく。
 欠落を意識し、それを埋めようと必死になるからである。
 これを野心と呼ぶこともあるが、若い時分に野心のない男や女など退屈極まりないもので、生意気なくらいで丁度いい、という言い方もあった。
 誰しも劣等感は持っているものだが、生活の個々の局面で小さく勝ったり負けたり、または許したり許されたりを繰り返し、それぞれ折り合いを付けていく。
 その過程で曰く言いがたいコクのようなもの、眼差しのようなものが滲んでくるものだが、その上澄みを掬いあげれば、あれこれ芸の世界に近いのではないか。
 
 
 
■ 例えば少年の頃、貧しかったとする。
 両親が不仲で別れる。実の父の姿を知らない。あるいは母の。
 なにくそと思いながら勉強し上に進み、大きな組織に入った。
 ところどころ軋轢のようなものがあって、そこを飛び出す。
 その決断は間違っていなかったと、何度も自分と周囲に語る。
 あそこは衰退する業種だ。こんな世の中はいつか再構築しなければならない。行き詰っている。衆愚じゃないか。
 若者に受ける。どこか不安定な時の大人たちにも受ける。
 イノベーション、社会変革。自己実現。
 半ば呪文のように唱え、得意な情報収集の成果を開陳するのだけれども、最後のところで別の流れがかぶさってくる。