熊谷の芝居。
 
 
 
■ ここでおさわが言う「熊谷の芝居」とは、「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)、その「熊谷陣屋」だろうか。
 熊谷(次郎)直実(くまがい(じろう)なおざね)。
 源平の戦いに参加した源氏の武将が、忠義のために我が子「小次郎」を身代わり、犠牲にして討つというお話である。
 元は人形浄瑠璃から発生し、それが歌舞伎に取り入れられた。
「荒事」というジャンルが歌舞伎にはあるけれども、それに対し内面を重視する芝居という意味からか「実事」と呼ばれているという。
 二段目に「組内の段」というものがあり、須磨の浜の波打ち際が描かれている。
「十六年は一昔、夢だ夢だ」
 我が子を犠牲にした直実は、そう呟いて出家していく。
 
 
 
■ 私が観た万太郎原作「三の酉」の舞台では、前述おさわの台詞の後、一転して視界が広がっていった。
 武家の恰好をした子役さんが小さな馬に乗ってあらわれる。遠見の敦盛。
 青とも紺色ともいえる海の波の中をである。
 あの波の発色とざらつきは、泥絵具で描かれたものだろうか。
 子役さんがなにか台詞を言う。高い声である。それが聞き取れない。
 だが、それでいいのである。
 演出が冴える一瞬だった。
 少女時代の夢のような明るい光と海を前に、「ぼく」とおさわが立っている。