霞かな 5.
 
 
 
■ 悪口の続きである。
 後半、井月がその土地にいられなくなっていく、次第に里の人間にうとまれていく流れを描いてゆく場面は、やや唐突である。
 明治天皇の顔が何度か出てくる。
 樹木希林さんのナレーションも、そこで強くなってしまう。
 井月の出身地が戊辰戦争の際の朝敵、長岡藩。その士族だっただろうということ。
 そこで戦わず遁れてきた脱藩者だったのだというカラクリと、また秩父騒動などに関連付けようとしていく映画的展開の場面では、個人的にはちょっとだけ困った。
 鬼の面を被った田中泯さんの舞踊も、そこでは少しあざとく私にはみえたのである。
 
 
 
■ 井月のような存在を共同体の中で支えていた中核は、地域の豊農層である。
 暮らしに余裕があったからというだけでもなく、当時あちらこちらに神様や仏様がいた。
 井月は、そのシンボルのようなかたちで里の人たちと交じり合い、書と句を為すある種文化人として一定の尊敬を集めた。役に立っていたと言ってもいい。
 緑坂的な言い方をすれば、里のオンニョロ様だったのだろう。
 
 
 
■ だが、維新というのは豊農層の期待に反する形で推移した。貧農にもそれは等しい。
 例えば「土」という小説があるが、長塚節は茨城の豪農の出である。
 天皇を中心とした国民国家に集約されてゆく過程で、例えば山窩(サンカ)、海人などが排斥されていく。人別外だった歌舞伎役者にも統制が入る。廃仏毀釈。文明開化。
 まったく息苦しい世相だった訳だが、かたちを変え、今も似たようなものかもしれない。