炊かぬ前から釜臥の山。 
 
 
 
■「斗南藩 三合扶持が足らぬとて
炊かぬ前から釜臥の山」
 
 という狂歌がある。
 誰が歌ったものか土地の人間だろうが、狂歌であるから勿論、ここにはやや冷ややかな視線が混じっている。 
 
 
 
■ 原野の開拓は見事に失敗した。
 地元の農民ですら放置していたかような荒れた原野で、昨日まで大小の刀を下げていた会津武士による開墾は、当時の技術水準では並大抵のことではなかったのである。 
 
 
 
■ 明治4年7月。廃藩置県が行われる。
 斗南藩は消滅し斗南県となるが、数ヶ月を待たず弘前県やがて青森県に吸収されていった。
 藩主嫡男容大(かたはる)に家名相続が許され、会津藩士の謹慎が解かれた明治3年より僅か一年余の出来事である。
 やがて旧藩主は上京を命じられる。新天地斗南でのお家再興の望みは絶たれた。
 それに伴い藩士たちも櫛の歯が欠けるように下北の地を離れていく。
 故郷の会津若松に戻る者。上京して軍人や羅卒になる者。多くの者は斗南に見切りをつけていった。