約束の地。 
 
 
 
■ 会津戊辰戦争の後、「朝敵」会津藩に家名再興が許されたのは明治2年である。
 政府が会津藩士の謹慎を解いたのが明治3年1月。そしてこの5月に政府は松平容保の嫡子慶三郎(容大)に3万石を与え、斗南藩知事を命じている。
 28万石から3万石。実質は7000石ほどの石高の土地である。
 それでも、主家再興に希望を抱いた旧会津藩士たちは、三々五々下北半島をめざした。
 会津から下北へはいくつものルートがあり、まず新潟に廻りそこから西廻りの航路をとる場合と、一旦仙台に出てそこから東廻りの船に乗る場合とがあった。
 維新後、東京で謹慎を命じられていた藩士とその家族たちは、政府がアメリカからチャーターした外輪蒸気船で斗南の地に入っている。
 明治3年の秋には陸路で直接会津から下北へ移住した婦人子ども、老人一行もいた。
 彼らはほとんど着のみ着のまま、途中霙や雪にたたかれ、干した魚をかじりながら本州最北端、約束の地をめざした。陸路では2-3週間かかる道のりである。
 下北半島に入った旧会津藩士は4332戸、17327人にのぼっている。 
 
 
 
■ 後に陸軍幼年学校、士官学校を出て明治33年「義和団事件」の際に駐在武官として活躍、大正8年に陸軍大将となった柴五郎は当時12歳の少年だった。
 柴五郎は移住当時の生活を日誌にとどめている。


「白き飯、白粥など思いもよらず、馬鈴薯など欠乏すれば、海岸に流れつきたる昆布、若布などをあつめて干し、これを棒にて叩き木屑のごとく細片となして、これを粥に炊く。方言にてオシメと称し、これにて飢餓をしのぐ由なり。色茶褐色にして臭気あり、はななだ不味なり」
「この冬、餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩せ衰え、脚気の兆候あり。寒さひとしお骨をかむ」
(「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」石光真人編著:中公新書より)
 柴五郎一家は野辺地から田名部に入った。
 始めに田名部の商人の家に寄宿し、のちに向町の工藤林蔵の空き家を借りて暮らす。
 日々の食事は稗飯である。この地域で米作りが始まったのは大正期に入ってからだが、それでも米の割合は5分5分であり、完全に米飯になったのは昭和10年代に入ってからだといわれている。米作に適した土地ではなかったのである。 
 
 
 
■ 柴五郎一家は生活に困窮し、時には犬も食料となった。
 塩で味付けしたそれである。
 ついに喉を通らなくなると、父に激しく叱責される。
 
「武士の子たるを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。
会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。
ここは戦場なるぞ。会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」
(「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」石光真人編著:中公新書より)