もうひとつの遠野。
 
 
 
■ 柳田国男に「遠野物語」の元話を語った佐々木喜善は、発刊された翌年の明治44年(1911)、東京遊学をあきらめ盛岡の入院先から遠野の実家に戻って家督を継ぐ。
 私立岩手県医学校、上京してからは哲学館教育部、さらに早稲田の文科に籍を置いた佐々木は、いずれも病のために中途だったとはいえ、村では明らかな知識人だった。
 始めは青年会の会長として、後には岩手の農会議員となり、次第に行政にかかわるようにもなっていく。
 勿論、執筆は続けていた。
「柳田氏の遠野物語の続編の類とも思ひ、陸中国遠野郷に行はるる諸々の風俗説話をば順序も秩序もなく我が胸に浮びしままに書き記す」
(「遠野雑記」佐々木繁:人類学雑誌28-4:明治45年4月)
 
 
 
■ 以下は「もうひとつの遠野物語」(岩本由輝著:刀水書房:1983)からの引用である。
「やがて1925年(大正14)1月、佐々木は39歳で土淵村の村長に当選した。
佐々木は無電灯部落を代表する形でその解消を公約にかかげ、二票差で村長に当選した。とにかく都会に出たことのある人間で、大学にいっていたこともあるということや、元貴族院書記官長柳田(国男)そのほか中央の人々を知己にもっているということの触れ込みから、佐々木に大物村長としての手腕を期待するむきも多かったのである」
 岩本氏は書いている。
「私たちが地方市町村の政治史を検討していて気づくことは、村長を始めとする村の有力者というのは、その大部分が村に生まれても、ある時期、なんらかの形で都会あるいはそれに類するところで生活したことのある人間であるということである。
それは、明治以降の日本の近代化が、どのようなものであったかを示す証左ということでもあろうが、土淵村での佐々木もその例に漏れなかったのである」
 
 
 
■「しかし村長としての佐々木は無惨であった」(前掲:144頁)
 これには性格的な要因も多かったようだが、佐々木が発起人となって作った耕地整理組合の経営が破綻し負債を負う。
 1928年(昭和3)年、佐々木は田畑屋敷を整理して借金を片付け、柳田を頼って家族共々再度上京しようとした。
 柳田は肯首しない。