2005年8月 Archive

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       二二 猫背
 
 
 
 
■ 昼過ぎに上海大厦に戻った。
 Eタイプは魅力的だが、この都市で日常的に使うことは許されないような気がした。
 英国製のスポーツカーは大抵尻が丸い。
 Eタイプの前、XK一五○もそうだった。英国人の正しい猫背のように、小さなテールランプが遠ざかる。
 これだけのコンディションにあるEタイプを上海の街に確保してあることに私はすこし呆れていた。タイアはダンロップ、楕円のラジエターグリルはそのままだが、リアのマフラー廻りのメッキと、細かなエンブレムは外れている。
 主に対米輸出に振り分けられていたこの時代のEタイプは、メッキの量が些かバランスを崩していた。それを適度なところまで枯れさせている。
 
 ジャガーの創始者ウィリアム・ライオンズは、大衆の気持を旨く掴む才能に長けていた。
 まずはスタイル、それから価格をみて大衆は購入を決める。
 もともとスワロー・タイプのサイドカーの生産から始まったこの会社は、当時の大衆車に英国風流線型のボディを被せることで売り上げを伸ばした。
 英国では階層によって選択する車種が明白に分かれている。
 ジャガーのセダンは、基本的に中産階級の車であった。
 政府の中級官僚や自営業者が選択する。どんなに金があっても、ロールスやベントレーなどには乗れないのだ。乗ることができたのは、髪を伸ばした音楽屋か映画の中のスパイだけだ。
 
 スタイルだけの車、安物と蔑まれたジャガーは、育ちの貧しさを払拭するかのように次第に性能を向上させてゆく。SS一○○は白鳥が翼を広げたようなフロント・フェンダーを持っていたが、ライバルの半分程の価格で時速百マイルを実現した。
 戦後、高価で高性能な車達が経営難から次々に姿を消すと、ジャガーは英国製スポーツカーのひとつの代名詞になってゆく。
 ル・マンにおいて始めてディスクブレーキを使い、メルセデスと死闘を繰り広げたのもその頃である。メルセデスはエアブレーキで対抗した。
 Eタイプは、そんな時代のジャガーの雰囲気を濃厚に残した最後の車種である。
 それ以後、量産スポーツカーと呼べるものをジャガーは作っていない。
 私は地下二階の駐車場で暫く濃紺のEタイプを眺めていた。ナンバープレートに「WJ」とあることに気付いた。
 それから外に出て、エントランスの前に待っているタクシーを拾った。上海の街には溢れる程走っているワーゲンのパサート、現地名〈上海〉である。渋滞につかまるまで、五気筒なのだろう、抜けの良い排気音でパサートは飛ばした。
 上海大厦の部屋に戻ると、日本からのファクスが届いていた。

 
 
 
 
■ 私は足の爪を切った。
 爪を切るのは久しぶりだ。それから長崎に向けての船の話をした。海の色が変わり、五島列島がみえてくる夜明けのことを葉子に教えた。
 葉子はどうして飛行機を使わなかったのかと尋ねる。
「飛行機では爪を切れないよ」
「そうね」
 暫く経ってから葉子は眠った。
 明日、江菫の姉を訪ねてみようと思っている。古くても良いからジャガー以外の車を用意しようと思った。なければタクシーだ。
 
 葉子の父はこのビルのオーナーなのだろう。
 むろん一人で全てを賄っている訳ではない。日本の大企業が、現地法人としてこのビルの中にいくつもの事務所を開いていた。
 以前このビルで仕事をしている時、英語と中国語、更には正確な日本語を話せる女性を何人もみかけた。彼女らは驚く程綺麗で、タイトのスカートを小刻みに振って歩く。
「日本人と結婚していたひともいるんですよ」
 助手のひとりに言われたことを覚えている。気をつけろ、ということなのか、同じ上海人の間でも明白な階層が生まれてきているのだ。
 グラスを浴室の洗面所で洗い、私も眠ることにした。どうしてグラスを洗う気になったのか、毛布を被る時、絹の感触が馴染まない。

 
 
 
 
■ その夜、私たちは寝なかった。
 五十五階の広いフロアには隠されたドアがあって、その中は螺旋階段になっている。
 降りてゆくと小さな寝室のようなものがあった。小さいとは言っても私の個室よりは広い。
 誰のためのものなのか、普段使われている形跡はなかった。
 寝室に備えられた浴室を使い、躯を流した。上質な絹でできたガウンを羽織った。
 
 この部屋には小さな窓しかない。ベットはふたつに分かれているが、ラバーの中には水が入っている。ウォーターベットである。硬い水なのだと私は思った。
 葉子に化粧を落とすように言った。
 部屋を暗くし、私は酒を嘗めていた。葉子の頬と耳たぶに触り、ぼんやり煙草を吸っていた。
「むこうで誰かと寝たの」
「ああ」
「そう。なんだか安心したわ」
 そうかな、と思ったが黙っている。葉子の躯はまだ硬い。

 
       二一 ペント・ハウス
 
 
 
 
■ 新しい石の匂いがした。五十五階の窓からは対岸が一望できた。
 黄浦江の黒くなった水面に、並んだ旧租界地帯の建物が映っている。照明は白色とオレンジとが混ざり、一本の帯のようにみえた。
 右手に電視塔が立っている。その先は細く尖り青白い光を発している。
 葉子がコーヒーを持ってきた。
 短くて黒いスカートに、襟のないジャケットを着ている。
 一脚日本円で五十万はするだろう、柔らかな革の回転椅子に私は座った。
「ここは事務所なのか」
 葉子ははっきりと答えない。大きなローズウッドの机の脇に巧妙に隠されたディスプレイがあり、せり上がったり格納されたりする仕組みになっていた。子どもじみている。
 
「親父さんの具合はどうなんだ」
 コーヒーを飲みながら私は尋ねた。
 葉子に反応はない。
 私は椅子から立ち上がり葉子の傍によった。肩に触り後ろ向きにした。
 背後から胸をつかむ。芯のある下着がわかる。服の上から暫く力を入れていた。
 葉子の躯が硬くなり、それから柔らかくなった。
 
「しっかりしろよ」
「痛いわ」
 私はもう一度椅子に座った。葉子が机の端に尻をあずけている。
「父は左手をなくしたわ」
「そうか」
「義手をつくるといってる」
「うん。酒が欲しいな」

 
 
 
 
■ 浦東新経済開発特別区に入った。
 高層ビルが幾つも並んでいる。建築中のものもある。
 幾つものクレーンが影絵のように空を指し、その先端には赤い光が点滅している。やや低い屋根は工場と倉庫の影だ。
 Eタイプは人気のない通りを何度か曲がり、ステンレスとガラスで出来た高層ビルの入り口で一旦停まった。
「事務所か」
 覚えがある。私はこのビルの三十二階に事務所を借りていた。私が金を払っていた訳じゃない。空いている部屋を使わせて貰っていたのだ。
「あれをみて」
 葉子が指さす。エントランスのところに白い模様のようなものがあった。廻りにはビニールのシートがかかっている。
「あそこで爆発があったのよ」
 葉子の父の乗るベンツが爆破されたのはこのビルの前だったのだ。
 葉子はEタイプの細いオートマチック・セレクターを指で動かした。ゆっくりとアクセルを踏み、ビルの側面にある地下駐車場の入り口に下ってゆく。
 ダッシュ・ボードの脇に置いたポケ・ベルのようなものを押し、ゲートを開けた。地下二階、一番奥まったところにジャガーを駐める。エンジンを切り外に出ると、湿ったビルの匂いに気付いた。エレベーターは五十五階を指している。

 
 
 
 
■ 門柱のすぐ脇に、黒に近い紺色のEタイプが停まっていた。
「犯罪だぜ」
 私は思わず口にした。
 
 そこにあるのは一九七三か四年型のEタイプ・ジャガー、シリーズ?。
 最後のフィクスドヘッド・クーペだった。十二気筒、ゼニス・ストロンバーグのキャブを四個振り分けた奴だ。排ガス規制で実力は削がれているが、二七○馬力はあるだろう。
 ステンレスのストーンガードがドアの下に貼られている。対米向けの大袈裟なエンブレムも外され、ルーカスではなくドイツ製のヘッドランプが光っている。ホイルはワイヤースポークで、オリジナルではない。適度に改造を受けているようだ。眺めているとすこしイヤになる。
 葉子が運転席に座っていた。窓を開け、乗るように合図する。
 華奢なノブを引き私は助手席に座った。タン色の革のシートだ。
「なんてこった、これも親父さんの車か」
「ええ、今動くのがこれしかないの」
 小さくクラクションを鳴らし、葉子は中山東一路を下る。
 和平飯店の角を曲がり南京ロードに入った。南京路は上海一の繁華街である。道路の両脇にデパートや高級店が並び、この時間になっても大勢の人が揺れるように歩いていた。
 Eタイプが近づくと道が開かれる。
 バックミラーで確認するのだろう、タクシーやバスが路肩に寄った。葉子は道路の中央寄りをかなりの速度で飛ばす。二度ほど交差点を曲がり、道の真ん中に空いているトンネルの入り口に吸い込まれていった。
 延安東路トンネルだ。
 Eタイプの排気音が響いた。加速する。
 ゆるやかに曲がりながら下り、暫くして昇った。視界が開かれ、背の高い塔がみえてくる。東方明珠広播電視塔だ。ライトアップされ、その中程は銀色に光っている。

 
 
 
 
■ 電圧変換のアダプターを使い、サブノートを使っていた。フロッピーを使うとき一々ドライブを接続する必要がある。
 夜の九時を廻った頃か、交換から電話が入った。
 出てみると葉子である。
「ファクスみたわ」
 葉子のいそうな場所のいくつかにファクスを入れておいたのである。ホテルの中にはビジネスセンターがある。
 上海で連絡を取る場合、相手のいそうなところにファクスを送るのがもっとも確実だった。電話は爆発的に増えているが、開設には一年から二年ほど待たされるのが普通である。家庭用一般電話は百世帯に一台、公衆電話は手動交換方式で、上海の街頭でみつけることは簡単ではない。中国全体の人口比電話加入率は○・九パーセントと言われていた。
 回線が不足すると携帯電話が選ばれる。価格は一台が中国人の年収に相当する十二万円程度である。成功者の証として、上海の街角では携帯電話を持ち歩く姿が目立っていた。
「どこにいたんだ」
 私は葉子に尋ねた。
「待って、これからゆくわ」
 電話が切れた。車の中からのようだ。
 私はノートの電源を切り、窓の傍に立った。
 前に泊まっていた時とは階数が異なる。部屋の造りは似たようなものだ。
 上海大厦は一九三四年に建てられたマンションをホテルに改造したものだ。上海ホテルとも呼ばれていた。古くて遅いエレベーターには時として閉口するが、バンドの夜景が一望できた。旧租界時代の建物がライトアップされ、この時間でも街はざわめいている。
 三十分程するとまた電話が鳴った。葉子が下に来ていると言う。
 上着を手に持ち私は部屋を出た。毛沢東のブロマイドをポケットに入れた。

 
       二○ 虹橋空港
 
 
 
 
■ たいして飲んだ訳でもないのに頭が痛かった。
 口先の民主主義ってのに酔ったのだろう。
 翌日、夕方近くまで部屋の中でだらだら過ごした。荷物をつくらねばならない。
 夜になって電話が鳴った。公衆電話なのだろう、雑踏の音が混ざっている。
「さっき吉川さんきたよ。上海にゆくんだって」
 江菫だ。
 曖昧に返事をしていると電話が切れた。暫くしてかかってくる。
「変造テレカ使えないのよ、ここ」
 どこで手に入れているのか、江菫の適応力にすこし笑った。
「向こうにいったらね、わたしの姉さんのところにいって。手紙書いておいたからね」
 江菫は私に上海の住所をメモさせた。電話は共同のものしかない。わかった、と答えていると電話が切れた。
 翌日、私はH市の病院に寄ることにした。
 冴の部屋には入らず、看護婦に花を預けた。
 それから成田にゆき、上海ゆきの飛行機に乗った。四時間ウトウトとすると虹橋空港につく。
 入国手続きはそう難しいものではない。日本円をとりあえずの額だけ元に換え、手荷物を受け取ると空港を出た。声をかけてくる白タクを振り切り、シャトルバスに乗って市内に入る。外白渡橋・ガーデンブリッジを歩いて渡り、常宿にしていた上海大厦に部屋をとった。
 前金を多めに渡し、冷たい水を持ってきてもらう。
 何本か電話をし、シャツを脱いでベットに横になった。
 妙に眠い。ベットサイドの引き出しを開けるとそこには聖書はなく、誰が忘れたのか毛沢東のブロマイドがあった。

 
 
 
 
■「日本が一番影響をうけたんだ」
 吉川が言う。
「当時の一部野党議員が訪中すると、語録の一節を書いた黒板を毎日胸にぶらさげて忠誠ぶりを示したりした」
「三角帽子を被らされて、反省のポーズを取らされている写真をみたことがあるわ」
 
 ジェット式というのだ。
 当時、中国各地にシェルターがつくられ経済の軍事化がすすんだ。
 世界各国の武装闘争を煽る動きがみられ、日本にもその資金が入ってくる。
「おれも語録は持っていたよ。つきあっていた女がくれたんだ。林彪が序文を書いていた」
 吉川は丸いグラスを揺らしている。太い指でグラスの脚はみえない。
 昨年の横浜港での事件には、フィリピン共産党の新人民軍NPAが絡んでいた。NPAは毛沢東思想を至上とし、武装組織CPPを有している。トカレフが搬入され、武器資金獲得の名目で覚醒剤が密輸される。
 慰安婦問題をめぐるボランティア団体に彼等は接近し、その元締めが北沢だったのだ。
 緊縛されたまま、葉子は冬の横浜港に落下した。
 
 酸素マスクをした冴の顔が浮かぶ。
 粗悪な覚醒剤を打たれ、H市の病院に入っている。
 黒くて深い海の底に、冴の躯が沈んでゆくような錯覚を私は覚えた。
 
 
○「夜の魚 外灘」A-了

 
 
 
 
■ 毛は実権を奪還しようとする。
 六五年秋、姚文元(ヤオ・ウエンユアン)による「海端免官を評す」が上海の新聞に掲載され、それが文革ののろしとなった。
「社会主義の中でも階級は存在する、ってのがその頃の毛思想だった。〈連続革命・継続革命論〉っていってな」
「走資派、っていうのよね」
「そうだ、指導部が変質して資本主義化する。それを倒さねばならないというのが文革の大義名分だった」
 〈まず破壊せよ、建設はそこから生まれる(破字当頭、立在其中)〉という毛の言葉がそれを端的に示している。
 指導部に規制されない個人的な命令系統が企図される。
 紅衛兵が組織された。
 彼等は批判力のない十代の少年・少女だった。どうにでも解釈される毛主席語録を暗記・記憶し、自分たちが革命の前衛であると、旧来の指導者や知識人を糾弾し、文化財を破壊した。ナチス以来の大規模な焚書も行われる。
 文革派の拠点である上海では六七年一月、「造反派」による「武闘」が成功する。ここで中心的働きをしたのが毛沢東の妻、江青(チァン・チン)ら「文革四人組」であった。 
 毛沢東の復権は成功する。
 全国に暴力と無政府主義的混乱がひろがった。公式に発表されただけでも、三万四千八百人が殺害され、八十万近い人々が迫害を受けたとされている。
 文革は七六年九月、毛沢東の死亡によって唐突に終わる。
 四人組が捕えられ裁判にかけられた。
 この期間に中国が失ったものは、今日でも正確に計測することのできない種類と規模のものだったと言われている。党への信頼の崩壊、文化財の損失、さらに人的資源の枯渇、崩壊寸前に至った経済的混乱など、その影響は今日でも続いていると指摘されている。

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