■ 私は走羽が置いていったナイロンザックを肩にかけ、事務所を出た。
 ステンレスのエレベーターにひとりで乗っていると不安になる。
 最上階まで昇り、葉子がいる部屋への階段を降りた。
 ふたつあるベットの一方で、葉子は横になっていた。
 赤い中国服を着て尻を出している。
 待ちくたびれて眠ったのだろうか、そうではなく、気配を察して葉子は起きあがる。細いサンダルの紐がほどけている。素足のようだ。
 小さなドアを開け、暫くすると葉子はコーヒーのカップをもってきた。
「すこし窓をあけてくれよ」
 葉子に頼み、四角い部屋をくるんでいるシャッターのようなものを操作して貰った。ここは先の細くなった高層ビルの天辺にくっついたガラス貼りの温室のようなものだ。いや、水槽なのかも知れない。
 
 半分ほど開いた全面の窓から対岸の旧租界地帯がみえた。
 手前には黒い黄浦江がある。人口一千二百万、正確にはそれ以上の、世界でも有数の国際都市の夜の姿だ。八十年代まではほとんど眠ったように沈黙を続け、大中国の表舞台からは完全に外されていた。
 眠龍、眠れる上海というのは毛沢東がしかけた〈罠〉であるとの意見をどこかできいたことがある。
 勿論非公式だが、と断りを入れた後で
「煽っておいて利用するというのは、常套手段だったのですよ」
と彼は私に説明した。
「上海方式ってのがありましてね、改革や議論を推奨した訳です」
「あとで切られましたね、提言した者の多くは」
 あれは市当局が主催する物産展のポスターについて打ち合わせをしている時だった。その男は市の職員だったのかも知れない。
 
 走羽は元紅衛兵だった。
 彼も煽られてそれを信じ、一夜開けると全てを失った男のひとりだ。
 無表情な細い眼の背後には、みてはいけないものを見続けてきた者だけが持つ無感動を装った意志のようなものがある。
 私はぼんやりと煙草を吸っていた。
 まだ残る街の照明の反射で、夜の雲が鈍く光っている。月が隠れたりみえたりして、空の上には風が吹いているのだろう。
「ねえ」
 葉子が傍によった。
 私は葉子の脚に触った。手を伸ばすと下着をつけていなかった。
 照明を消した。部屋は空に浮かんだ水槽のようだ。
 背中に挟んだベレッタを右手に持ち、後ろから葉子の中にはいった。