■ 毛は実権を奪還しようとする。
 六五年秋、姚文元(ヤオ・ウエンユアン)による「海端免官を評す」が上海の新聞に掲載され、それが文革ののろしとなった。
「社会主義の中でも階級は存在する、ってのがその頃の毛思想だった。〈連続革命・継続革命論〉っていってな」
「走資派、っていうのよね」
「そうだ、指導部が変質して資本主義化する。それを倒さねばならないというのが文革の大義名分だった」
 〈まず破壊せよ、建設はそこから生まれる(破字当頭、立在其中)〉という毛の言葉がそれを端的に示している。
 指導部に規制されない個人的な命令系統が企図される。
 紅衛兵が組織された。
 彼等は批判力のない十代の少年・少女だった。どうにでも解釈される毛主席語録を暗記・記憶し、自分たちが革命の前衛であると、旧来の指導者や知識人を糾弾し、文化財を破壊した。ナチス以来の大規模な焚書も行われる。
 文革派の拠点である上海では六七年一月、「造反派」による「武闘」が成功する。ここで中心的働きをしたのが毛沢東の妻、江青(チァン・チン)ら「文革四人組」であった。 
 毛沢東の復権は成功する。
 全国に暴力と無政府主義的混乱がひろがった。公式に発表されただけでも、三万四千八百人が殺害され、八十万近い人々が迫害を受けたとされている。
 文革は七六年九月、毛沢東の死亡によって唐突に終わる。
 四人組が捕えられ裁判にかけられた。
 この期間に中国が失ったものは、今日でも正確に計測することのできない種類と規模のものだったと言われている。党への信頼の崩壊、文化財の損失、さらに人的資源の枯渇、崩壊寸前に至った経済的混乱など、その影響は今日でも続いていると指摘されている。