2005年7月 Archive

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       四 長崎
 
 
 
 
■ 昨夜、江菫は私の船室の狭い椅子にぐったり座り、それからカバーのかかったままのベットに横になった。
 額には脂汗が滲んで寝苦しそうだった。
 江菫はオレンジ色の短いスカートを履いていた。太い太股にストッキングがびっしりと纏いついている。暫くそれを眺め、私は船室の外の廊下で煙草を吸った。
 
 いつかもこんなことがあった。
 梅雨の切れ間の日曜の深夜、私はバス停で倒れた葉子を拾った。今にして思えば薄い恋だったのだろうか。事件に巻き込まれ、初めて人を殺すことになる。緊縛された葉子を後ろに乗せ、古い単車で真冬の横浜港に飛び込むハメになった。上海にゆくことになったのも、きっかけは葉子だ。
 事件は片づいたようにも思えるが、落ち着いたという気分がしない。
 葉子の父にも何度か会った。だが、互いに本当のことを話しているという確信は持てなかった。今は努めて仕事のことだけだ、という距離を胸の中で意識しあっているように思えた。
 
 江菫がすこし唸って寝返りを打った。脚が開かれている。私はバスタオルをその尻にかけた。
 この上海娘、上海小姐は何をしに日本にゆくのだろう。
 彼女に連れはなく、出航の際デッキで話していたのはその場で知り合った女だったという。不安だったのだろう。
 次第に空が薄くなってきて夜が明けた。長崎港についたのは午前九時近かった。五島列島の脇を通るとき、海の色が変わった。
 この季節、長崎は雨が多い。台風にはまだ早いが、梅雨時の風も南から吹いてくる。
 桟橋で江菫と別れた。
「じゃあ」
 と、手を振ると彼女は日本式に頭を下げた。
 私は荷物を持ち、通りに出ようとした。
 昇り坂になっている船着き場から大通りに向かうとき、なんだかすこし眩暈がした。持っている鞄が重く、一度に汗がでた。
 車輪のついたスーツケースを脇に置き、その上に腰掛けようとする。
 今頃吐き気がしてきた。
 私は、自分のプラスチックのスーツケースの上に胃の中のものを吐いた。

 
 
 
 
 私は幾つかのポスターをつくった。
 浦東新区の高層ビルの一画に事務所があり、そこで新しい製品の広告を台湾製のパソコンを使って、一日に幾つもでっちあげていた。
 車から電気製品、口紅に上海市浦東新区工作委員会の宣伝物まで、そこではありとあらゆるものが宣伝の対象になっていた。
 私が口にする言葉を二人の助手が中国語に直してゆくのである。彼等は日本に留学していたこともあり、言葉の点で問題はなかった。ただ、そうした曖昧な言い方はここでは通じないと何度も指摘された。
 
 浦東の建築現場には沢山の労働者がいた。その数は五十万人とも言われる。
 工事は夜を徹して行われることも多く、付近にはバラックのような飯場が点在していた。時折、軍の車両が巡回に廻っている。公安警察では追いつかないのだ。
 工夫の中には周辺の農村からでてきてそのまま戻ることのできない男達も随分いるようだった。彼等は現場の傍にある資材置き場で夜を過ごしている。雨の日にはビニールのシートを被って路上で寝ていた。
 私は往復の車の中でよく眠った。上海の渋滞は運転手がエンジンを止める程で、そうするとエアコンが効かない。
 
「ねえ、日本ではどの部屋にもテレビがあるんでしょ」
 江菫が言った。
「そうでもないさ」
 私はどうすべきか迷っていることに気付いた。デッキの外は雨になったようだ。低い音が耳の傍で続いていて、それは床下から伝わる。鋼鉄の下は深い海だ。
 ここはどのへんなんだろう。日本に近づいている。

 
 
 
 
 名前を江菫(ワン・ヤン)という。年は二十歳になったばかりだそうだ。
 私は煙草を取り出して彼女の前に出した。江菫は細い指で一本を抜き取り、すこし眺めては唇にくわえた。私は火を貸す。
 リノリュウムの階段に腰掛け、私たちは煙草を吸った。
「一度日本にいってみたいとおもっていたの」
 昼間は電子部品の工場で働き、週末になると、旧租界地にあるバーで働いているのだという。
「十八の時に姉を頼って上海にでてきたの。バーで働いていることは姉には内緒。でも、姉さんだってひとのことは言えないわ」
 私は二本目の煙草を吸うべきか迷っていた。近くには灰皿がない。
 蛍光灯の下で眺めると彼女は瞼に黒くシャドーを塗っている。赤く塗られた唇は比較的大きく、横顔と首筋は細かくて白い。
 
 一ヶ月ほど滞在した上海の街で、私は彼女のような若い娘をたくさんみかけた。ほとんど仕事だけの生活だったが、食堂でも時折入るファーストフードでも、短いスカートを履いた若い娘が大股で歩いている印象が残っている。
 
〈上海姉〉
 誰だかがそんなことを言っていた。
 上海の街は女が目立っている。モダンガールという言葉は死語になっているが、くっきりした顔立ちの瞳の大きなモデルが今の上海では好まれた。

 
        三 江菫(ワン・ヤン)
 
 
 
 
■ ぬるくなったビールを飲みながら、私は硬いベットに横になった。
 私が入った特等船室には小さな窓があり、暫くすると外はただ黒い海になった。
 時折外に出て簡単な食事を持ち帰り、部屋の中で食べた。持ち込んだ本を読もうとしたが数行追うだけで続かなかった。
 二日目になり天候が崩れた。揺れが大きくなる。玄海に入ったのだ。
 その夜、私は眠れなかった。
 二等船室に降りてゆくと、夜の暗がりの中で空気がぬるくなった。これが人いきれだと気付くのに時間がかかる。すえたような甘い匂いはタラップにまであがってきて、傷ついたアルミニュウムの窓枠で遮られた。
 
 毛布を被った二人連れが船の揺れに合わせて蠢いている。
 微かに声のようなものも聞こえるが、何と言っているのかわからない。暗がりに眼が慣れると、船室のあちらこちらにそうした塊があることに気付いた。離れて眠っているのは、ザックを抱えた日本人の若い男と女のようだ。彼等は眠れるのだろうか。
 私は上海の自由市場の雑踏を思い出していた。あそこに空がなく、そのまま眠りにつくことがあったなら、このような生身の人間の匂いがするのだろう。
 私は手すりにつかまり、引き返すことにした。デッキへ続く階段のドアを開ける。すると、原色の上着を着た女が背中を向けて階段にしゃがみ込んでいるのがみえた。
 人を呼ぼうかと思ったが廻りには誰もいない。
 二度声をかけると女はふりむいた。船酔いなのか青い顔をしている。
 私は傍に立っていた。暫くすると彼女は手すりにつかまって躯を起こした。髪を直しながら、あなたは日本人かと聞く。そうだと答えると、日本人がどうして船に乗っているのかと尋ねた。

 
       二 上海大厦
 
 
 
 
■ 船の中では日本円しか使えなかった。
 私は緑色の缶ビールを買い、特等船室に入った。
 躯の深いところに、なにもしたくない気分が残っていて、それは昨夜吸ったアヘンのせいだと思われた。
 始めは吐き気を伴うが、そのまま夢のように流されてゆき、こうしているだけでそれで良いのだという気分になる。
 昨夜、宿泊先の上海大厦(シャンハイ・ダーシア)、別名ブロードウェイマンションの一室で始めて試みたのだ。
「こうしないと匂いがこもるのよ」
 十四階の部屋の窓を葉子は無理に開けた。
 湿った風が入り込み、レースのカーテンが揺れる。
 革張りの古いトランクから、葉子は道具を一式取り出した。机の上に並べる。
 煙燈(イエントン)と呼ばれる細長いアルコールランプのようなものに火をつける。下には油壷がついていて胡麻油が入っている。どうして胡麻油を使うのか私は不思議に思った。
 
 葉子は、煙槍(イエンチャン)という長いキセルを取り出した。先端のスプーンのような雁首をタオルで拭いている。それから白いプラスチックの容器の蓋を廻して外し、膏薬のように湿ったアヘンを指ですくった。
「これが煙膏(イエンカオ)っていうの」
 アヘンを焔であぶり、粘度を持たせたものだ。雁首にこすりつける。
「本当に吸うつもりなの」
 葉子は私に尋ねた。眉をしかめている。
 私はそれには答えず、煙槍を受け取ると口にくわえた。
 煙燈の焔の上にそっとかざす。ジジッと樹脂が焦げるような音がして、湿った煙膏は白い煙をあげはじめた。
 煙膏は紫と茶色の斑になっている。次第にそれは混ざりあい、腐る前の果物のような匂いが漂ってくる。
 私は二口か三口吸い、椅子から立ち上がって窓の傍に立った。すこし胃がむかむかするようだ。躯は軽くも重くもない。
 
 窓からは外白渡橋、旧名ガーデンブリッジが間近にみえる。
 バンドには無数の灯りがついていて、黄浦公園にはまだ大勢の人影があった。

 
       一 外灘(バンド)
 
 
 
 
■ 対岸に背の高い塔がみえている。
 手前の低い森は次第に暗くなってきて、塔とその背後に直立している幾つもの高層ビルに灯りが点き始めた。
 全部にではない。未完成のものも随分あるからだ。
 低い日が翳った。雲が流れ、すこし風が吹いてきた。茶褐色の黄浦江はところどころ斑に色を変えている。
 埠頭のこちら側を眺めると、灰色に曇った旧租界地帯の建物が並んでいる。建物の高さはそれほどでもない。柱に飾りがあり、照明を浴びるとそれが複雑な影をつくっている。その隙間に赤や紫のネオンが増え始めた。
 私は船のデッキに立っていた。思ったよりも船体は小さく、混雑している印象はなかった。貨客船なのだろう、忙しくコンテナが積み込まれている。
 
 私は上海から日本に戻るところだった。
 空路ではなく、海を選ぼうと思ったのだ。
「海華号」は一万三千トン、上海と長崎を結んでいる。船は週の始め、その夕刻に上海の国際フェリーターミナルを出航し、二泊三日で長崎に着く。神戸や大阪、横浜にゆく航路もあるというが、長崎がふさわしく思える。
 対岸の背の高い塔にスポットが当たり始めた。
 ミラーボールのようなガラスで囲まれた球状のものが同じ太さで繋がっていて、その先は突然細くなっている。先端は赤と白で分けられ、突端からはテレビの電波が出ているのだという。
 東方明珠広播電視塔だ。
 四百六十メートル、東洋一の高さらしい。離れて眺めると、旧いサイエンスフィクションにでてくる挿し絵のようにも思える。
 私はすこし疲れていた。ここは何処なのだろうと考えていた。
 若い女がふたりデッキに立っている。片方は金色の髪をしている。原色の、恐らくはポリエステルの上着を着ていた。早口で何事かを話している。
 船が微かに揺れ始めた。手すりに振動が伝わり、その後甲板に広がった。
 重油の排気は、すっかり黒くなった空に隠れている。耳の傍で低い大きな音がした。出航の時間になったのだろう。
 私は階段を降り、船室に戻ろうとした。テープのドラの音が船内に流れている。

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