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「夜の魚」一部 vol.80

 
 
 
■ 晃子の部屋の玄関には小さな額縁が飾ってあった。
 幾何学的な模様が灰色の下地に何本も重なっている。
 私は部屋に入った。ソファの上に鈍い赤色の布が被さっている。全体をくるむように、その色は三十を過ぎた女の部屋には強すぎる印のようにみえた。
 晃子の唇が動いた。
「この上だったのよ」
 冷ややかに見下ろしている。
「わたしは眼を開けてソファの模様を見ていた。ナイフでなぞられるまではね」
 おそらく、そういう姿勢を取らされたのだろう。晃子の下唇には二本の深い筋がついている。決して小さいとは言えないが感情のこもったかたちをしている。
 
「買いかえるのもシャクだから、布を被せたの」
 それが赤い布であるところがしたたかさというものだろう。
 私たちはコーヒーを飲んだ。向かい合っていると懐かしい気配もしたが、それが錯覚であることはわかっている。
「すこし整理をしようか」
 私はその時、晃子も同じ次元にいるのだと考えていた。何か知らないものに巻き込まれているのだと思っている。
「あの葉子って娘は、どんな子なの」
 珍しく晃子が直裁に聞いてきた。
「寝てるから恋人って訳でもないだろう」
「ライターの癖にツマラナイことを言うのね」
 晃子はまだ苛立っている。
 私は医局の友人から送られた文献の話をした。見事に切断されたいくつもの断片があって、それを目まぐるしく替えてゆく。
 どうしたらその場に一番適応できるのか、現状を認識する能力は基本的に高い。けれども、そうできるのは内部が見事に空白だからであって、本人はその空白に何処かで気付いている。であるから、長期的には適応も底の浅いものになってしまう。揺れながら異性や薬物に依存することもある。
 旨くは説明できなかった。
「でも、それってわたしたちだって同じじゃない。ひとをモノや部分のように扱うことはあるわ」
 私は、そもそもどれが本当の姿なのか掴み難いのだと言った。
「そこが魅力なのね」
 晃子はコーヒーを飲む。大きな黒い瞳である。
「そうかも知れない。なんだか理詰めで考えても無駄のような気がするんだ」
「歳をとったのよ」
 晃子が小さなステレオに手を伸ばした。スイッチを入れるとほんの僅かに音のずれたピアノが小さく聴こえた。
 
「エバンスは甘いわね」
 外が暗くなった。自分のことを言われたのかと思った。

「夜の魚」一部 vol.79

 
    二〇 一月
 
 
 
■ 一月は乾いた空と時折の雨で始まった。
 入院していたせいで仕事が溜まっている。私は誰もいない事務所で二つのディスプレイを眺めていた。灰皿がいくつか山になった。通りが静かになって夜が過ぎ、気付かないまま新年になっていた。
 雨は思いだしたように降り、すこし経つとすぐにあがった。空気は乾いたままだ。
 連休の前日、私は同じように深夜まで画面を眺めていた。
 すこし歩き、車を拾って部屋に戻った。あれ以来、自分の車にはほとんど乗らなくなった。ヒーターがうなるのを待ち、薄いコーヒーを入れようとした時、電話が鳴った。
「あら、いたのね」
 晃子だった。
「去年のイブの夜ね、北沢から電話があったわ」
 微かに躯がこわばるのがわかった。
「近いうちにまた顔をみせてくれ、って言うの」
 北沢は生きていた。サーブは北沢のものだが、運転していた男の肌は褐色だった。
「声を覚えているのか」
「そりゃね」
「彼女、葉子さんは今どこにいるの」
「今は実家だろう、住所まで聞いた訳じゃないが」
「どうしてあなたって誰にでも一定の距離をとろうとするの」
 晃子はすこし苛立っている。時計をみると午前三時に近い。
「眠れないのか」
「そう。また無言電話があったのよ」
 私は冷たいベットに腰掛け、晃子の話を一時間程きいた。
 イブの夜は、退院した吉川が銀座の外れで食事を奢ったのだという。吉川はまだ酒が飲めず、晃子がなにやら高いワインを一本飲み干した。
「送らせて欲しい、って真面目な顔して言うのよ」
 ドアの前の情景が目に浮かぶ。帰る姿も。
「部屋に戻って着替えていたら電話が鳴ったの」
 それが北沢だったのだ。
「わかったよ、午後になったらゆくから」
 そう言うと、上着だけを脱いで眠りに落ちた。

「夜の魚」一部 vol.78

 
 
 
■「ねえ、わたしが中国人だったらどうする」
 葉子が唐突に尋ねた。
「じゃ、韓国籍だったら、寝れる」
「どうしてそんなことをきくんだ」
「あのね、若い男が寄ってくると、韓国籍だと言って追い払うのよ」
 私は手を伸ばして灰皿を探した。正直言って、考えたこともなかった。
「若い男はどうするんだ」
「急におとなしくなって、そのまま帰るわ」
「そうだろうな」
 と、答えてから自分の言葉に驚いている。
「川向こう、っていうんだってね」
「あなたなら、どう」
「多分、最後のところでためらうだろう。…きちんとできないような気もする。自信はないよ」
「正直なひとね。でも、遊びならできるのよ」
 葉子が起き上がった。煙草を一本抜き取り、安いライターで火をつけた。
「セックスって、やっぱり政治的なものだわ」
「七十年代の文化人みたいなことをいうんだな」
「そうじゃないのよ、慰安婦問題だってね、相手がもし欧米人主体だったならすぐに謝っている筈じゃない」
 第一、白人を慰安婦にする発想はない、と答えようとした。当たっているので黙っていた。水平に動くエスカレーターのある街で、そこにそびえている新しいホテルの中で、およそクリスマスには相応しくないことを話題にしている。しかも裸だ。
 葉子の背中はくびれていた。手足は長く伸び、顎の線は鋭角で無駄なものがなかった。切れ長の瞳は、手入れをしていないと見せた眉毛の下で、大陸系であるかとも思われる。肌のきめは細かい。
 
 いつぞや、周辺性について調べていると面白い記述があった。マージナル・マンと定義されていたナチスの指導者達を、旧ドイツの財界人は、「川向こうの奴等」と呼んでいたのだという。旨く利用するつもりだったのだろう。
 私は葉子について考えた。子供のような横顔を見せたかと思うと、簡単には答えられない質問をしてくる。それは本質を抉っているかのようにも思える。
 北沢と寝たのはそのせいか、と尋ねようとしたが思いとどまった。
 暫くぼんやりし、眠ることにした。
「先に寝てて」
 葉子はそう言う。何かを考えているようでもある。
 葉子の肩口に毛布を掛け、背中を向けたところで隣のベットに移った。いつの間にか眠りに入る。

「夜の魚」一部 vol.77

 
    十九 対岸
 
 
 
■ 私たちはホテルに戻った。
 イブの東京湾は思いの他静かだった。軽くシャワーを浴び、酔いを醒ます。石鹸で頭を洗うと、キシキシして何本も毛が抜けた。
「どうするの」
 葉子はシーツを被っている。
「まあ、いいんじゃないか」
 私は煙草を吸った。決まりみたいなものだ。
 寝よう、と直裁に言ってあれこれ理屈をつける女を私は信用しない。
 若い女ならともかく、一定の経験を積んだ女性がもったいぶる姿をみると、上着を抱え取ってかえすことにしている。かといって、すべてを解放してゆくのもいかがなもので、性の底には明らかな暗さも怖さもある。避ける訳にはゆかない。その上で自分と相手の欲望を認め、素直に受け入れる姿勢を示す女性を好ましいと思っている。葉子は直裁に反応した。
 わかったわ、何処、と芝浦で答えた。ホテルに戻ることにしたのだ。
「マゾっ気があることはわかった。今日は普通にゆこう」
 私はシーツに潜り込んだ。半ば眼が醒めたような姿勢のまま、形の上では外側に終わることにした。葉子は唇を使わなかった。そうしようという気配を押しとどめた。背中を抱いている。葉子は足首を絡めている。

「夜の魚」一部 vol.76

 
 
 
■ 桟橋の中に入った。
 鍵をかけ忘れた柵があって、横に動かして車を入れた。
 人影はない。
「この曲、聴いたことがあるわ」
 オーケストラの演奏でクライマックスに近づいていた。曇った音は録音が古いせいだけでもない。音をすこし大きくした。黙って聴いている。
「なんだか、自由への渇望って感じの演奏ね」
 葉子は人の心を読む。こちらが気付いていない偶然の出来事の意味を探る。カセットを持ってきたのはフトした弾みで、棚の端にあるものを選んでみた。それがフルベンだったのだ。演奏は一九五○年くらいのもので、当時のヨーロッパは大戦の痕が生々しく残っていた。ドイツはふたつに割れ、戦争の危険すら濃厚にあったという。
 
「わたしね、ローラって本を読んだことがあるのよ」
「フライパンで母親に焼かれた女の子の話」
「口も耳も、みんな不自由なの」
「ボランティアを始めた頃、読んだの」
 幾分かは嘘が混じるのだろう。
 しかし、別の意味を考えることにした。自分も焼かれているのだと示唆しているのかも知れない。半ば嘘が混じり、半ば切実で、その間を葉子は忙しく揺れている。揺れに耐えられなくなると、自分を物として扱おうとするのかも知れない。
「君は、マゾか」
「え」
「マゾッ気が強いだろう」
「うん」
「安心するのか」
「わからないけど、そうかも知れない」
 サディスティックな部分も強いことはわかっている。並の男以上に冷静・確実に車や銃を扱うこともできる。頭の中には残酷な思い付きが浮かぶことも度々あるに違いない。
「じゃ、寝ようか」
 ひとくぎりついたような気がした。

「夜の魚」一部 vol.75

 
 
 
■ 外に出ることにした。葉子はそれ程飲んでいない。
 葉子は皮のコートを羽織った。口紅が赤い。地下の駐車場にゆきBMWを出した。葉子に運転をさせる。山手通りに曲がってゆく。
 私は鞄からカセットを出し機械に入れた。
「なに」
「フルベンというじいさんが指揮するオペラだよ」
「芝浦にゆこう」
 イブの夜の山手通りは混んでいた。千葉や多摩ナンバーが並び、渋谷からの坂を下るのに一時間かかった。
 拍手の音が入っている。バス・バリトンの声が低く響いている。彼は悪役で、幽閉された囚人を謀殺することを命ずる。
「訳がわからないわね」
 葉子は薄い不満を口にした。しかし、ボリュウムを絞ることはない。
 私は何か別のことを考えていた。酔いは鈍いものに変わった。
 
 私は葉子に心を読みとる能力があるのではないかと思っている。
 今、ワイダをもってくるのは何故か。
 葉子を眺めていると、切断された鮮やかな断片が印象に残る。そうしたシーンはいくつも思い出すことができる。しかし、それらは分断されていてひとつのものとして統合されることがない。
 借りてきたビデオの中に鑑別診断をする場面があって、それは人間かそうでないのかを曖昧に区別する技術だった。友人から送られた文献のリストには、いくつもの質問形式が例文として載っていた。「ボーダーライン・スケール」と呼ばれるもので、該当するものが多い程疑わしいということになる。
 
「私は周囲の人や物事からいつも見放されているかんじがする」
「最初にあった時はその人はとても立派にみえるが、やがてガッカリすることが多い」
「他人は私を物のように扱う」
「残酷な考えが浮かんできて苦しむことがある」
「私の内面は空虚だとおもう」
 
 確か、そのような質問が五十程度並んでいた。試みにテストしてみれば、恐らく私も該当の範囲だろう。
 ポーランドには沢山の強制収容所があって、そこでは何十万というユダヤ人やジプシーが殺された。
 人種、民族という曖昧な境界であったが、線を引き、ひとつの民族を地球上から根絶しようとする思想は何処から出てきたのだろう。
 ベートーベンの、「フィデリオ」は難解で一般受けしないと言われる。
 確かにロマンチックでもないし、誇張されてもいない。
 暗く、聴いていると辛くなるかのようだ。
 車が流れ出した。
 葉子がセカンドで引っ張った。
 舌先を伸ばしていた時の表情は微塵もない。葉子は自分を物のように扱っているのだと気付いた。

「夜の魚」一部 vol.74

 
 
 
■「撃った時、どんな気分がした」
 私は尋ねた。葉子の眼が光り、フンと鼻が上をむく。耳が隠れる程伸びた髪が一度開き、躯を起こしてこちらを向いた。
 悲しんでいる訳でもない。怖がってもいない。葉子の姿はとりとめがない。
 私の座っている椅子の傍により、葉子は猫のように跪いた。
 私のバスローブを開く。スイッチが切り替わったのだとわかった。
 葉子が私を誘ったのはなんのせいか。
 話したのは何処までが本当か。自分がわからなくなるという。ノルビックの詩を覚えたのは私が喜ぶとおもったのか。
 女の敵は女だという。
 目線で、あるいは隠された口紅の下で、若い女は毎日何人かの同性を殺している。
 しかし、本当に銃を打つ訳ではない。そのように訓練されたひとがいることを私は知っている。撃たなければならない国に住んでいるひとも。中国の狐のような女は、北沢の女のひとりだった。葉子は北沢の子を孕んでいた。
 
 空調の音が微かにする。
 舌先が太股の内側を遊んでいる。
 髪が触れる。
 まだ一度にはゆかない。私は葉子を押しのけた。
「倉庫で晃子と何を話していたんだ」
 口紅がとれている。鼻の廻りに細かい皺がよって唇を丸めた。不満なのだ。
「晃子さんは、あの女に会ったら殺してやるといっていたわ」
「それだけじゃないだろう」
「ええ、あなたのことを聞かれたのよ。…あなただって共犯じゃない。銃を使わなかっただけよ」
「そうだ」
 後に続く言葉を捜したが、簡単ではなかった。
 腹の底でなにか冷たいものが動くのがわかった。

「夜の魚」一部 vol.73

 
 
 
■ 葉子は髪が伸びていた。私はグラスを持っている。
 触る気持が起きるのを待っていた。
「わたしってね、たいていのことは旨くゆくんだけど、肝心なことがわからないのよ」
 葉子が言った。
「こうすればこの人はこう動く、ってこともすぐにわかってね、相手に応じて器用に使いわけることもできるの」
「誰でもそうじゃないか」
「でもね、そうしていると自分がなにをしたいのか、段々わからなくなってくるの」
 
 私は持ち込んだワインで餃子を食べていた。新築のホテルの部屋でポリ容器に醤油を垂らし、上品な餃子をつまんでいるのは不思議だ。味はいまひとつ。
 壁が薄いのだろう。建物全体が合金の上に薄い石を張ったような造りだった。沢山のひとの声が微かに響いている。
「よく予約できたな」
「父に頼んだの」
「親父さんは何処にいるんだ」
「上海」
「上海で何をしているんだ」
「ビールを売っているのよ」
 また訳がわからない。
「卒業したら上海にゆくわ」
 葉子はそう言う。
 私たちは赤いワインを飲んだ。ぬるくなってきている。葉子は短いショーツ一枚になっていた。その上に備え付けのバスローブを羽織っている。
 そう大きくはない胸がみえる。
 まだ芯が残り、強く掴むとはじめのうちは痛がった。

「夜の魚」一部 vol.72

 
    十八 渇く
 
 
 
■「松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき」
 葉子がベットの上で低い声を出した。
「なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを」
 
 どこかに記憶がある。埃を払うと鈍い金属版が覗ける。
「銀座で映画をやっててね、観たのよ」
「灰とダイヤモンドか」
「ワイダってひとが書いたのかとおもってたわ。本を読んだら難しくて最後まで読めなかった」
「でも、はじめのところだけは覚えたの」
 アンジェイェフスキだったと思う。小説の扉に、ノルビックの書いた詩が引用されている。
「灰の底ふかく、燦然と輝くダイヤモンドの残らんことを」
 私は、「自由」という言葉につまづいている。葉子が口にすると、何か意味があるかのように思えた。
「自由になりたいのか」
 私は葉子に尋ねた。
「ずっと、そう思っていたような気もするけど」
 空調の音が低くしている。
 部屋は乾き、窓からは隣にあるビルの灯りがみえている。葉子が予約したのは、恵比須にある人工的な街のホテルだった。
 駅から続く水平のエスカレーターがあり、それはいつも警告の声を流している。
 少しだけ開いた土の中に痩せた樹木が埋まっていて、そこには小さな電球が無数に纏わりついている。
 照明を浴びた建物の前で、若い男女が写真を撮っている。座り込んでいる若者もいる。
 人工的な街の中にあるデパートで酒とグラスを買い、部屋に潜り込むことにしたのだ。
「でも、自由って何かしらね」
 私は葉子が撃った中国女のことを考えていた。
 火花はトカレフの銃口から短い間、白く出ていた。

「夜の魚」一部 vol.71

 
 
 
■ 土曜日になった。
 私は地下鉄を乗り継ぎ、表参道に出た。
 明るい通りからとって返し、ガラス張りの店を何軒か越した。注意深く眺めていると店の名前が随分変わっている。
 いつだったかこの辺りで高いシャツを買ったことがある。
 モデルをしていたと思われる眉毛の濃い男が胸元をはだけ、ツータックのパンツで説明をしてくれた。
 金を払い、むかし雑誌でみたことがある、というと露骨に嫌な顔をした。
 稚児が古くなると店に廻されるのだと聞いた。
 古いと言っても二十代半ばでしかない。
 
 坂をまっすぐ降ることはせず、左に曲がり青山墓地の手前の陸橋に向かった。
 タクシーの後ろに見覚えのあるBMWが停まっている。
 エンジンを切ってスモールを灯けている。
 
 葉子は陸橋の橋桁にもたれていた。
 下はキラー通りだ。黒い皮のコートを着て、短いブーツを履いている。
 その下はスカートなのか、灰色のようにも思える。
 私は脚を引きずっていることに気付いた。片方が硬直し、踵だけが擦り減るような気持がする。
 
「よお」
 と挨拶すると、葉子が指をさした。
 まだ低いところに赤と茶色の月があった。
 大きくて斑な模様がはっきりとしている。
 上の方が欠け、ビルの間から昇ってきている。
「この世の終わりみたいだね」
 葉子がそんなことを言う。
 横を向くとタワーが立っている。
 一番上のところだけがみえなくて、晴れてはいるがガスが出ているのだとわかった。
 空の上も風がないのだろう。