Tag | 4.夜魚 31-40

「夜の魚」一部 vol.40

 
 
 
■ 私は台所に立ってお湯を沸かした。
 沸くまでの間、どうすべきかを考えた。コーヒーを入れると、私は東金の葉子に電話をした。吉川に連絡を取りたいのだと告げ、番号を聞いた。部屋を出ないよう葉子に言う。
 教えられた番号にかけてみる。七回ほど鳴って、割れたような声で吉川が電話に出た。名乗る。
「ちょっときてくれ、内ゲバなんだ」
「なに、ぞくぞくするじゃないか」
 吉川とは、マンションからすこし離れたビリヤード屋の二階で待ち合わせることにした。
 
 晃子が言う。
「わたしにいうことはないの」
「ある」
「なによ」
「手当したのか」
「シャワーも浴びてないわよ」
 ここを出ることにした。晃子は身仕度をする。ぱさりとガウンを降ろすと背中を向けて風呂場へ入った。傷を避けて流すのは難しいだろう。
 女の支度は時間がかかる。棚と冷蔵庫を開き、私は簡単な料理をつくることにした。タマネギのスープだ。
 隣の部屋で髪を乾かす音がする。車輪のついたスーツケースを持って、晃子がでてくる。
「あなたが持つのよ」
 私がうなづくと、晃子は濁ったスープをすすった。

「夜の魚」一部 vol.39

 
 
 
■「今日の朝、警察の者だといって、男と女がきたのよ。帳面をひらひらさせるからドアを開けると、そのまま入ってきたわ」
「女の方は二十七位、色が白いから中国系にもみえたけど、顎の線の綺麗ななかなかの美人だった」
「男は三十代後半、傍によるとそれがわかったの」
 黒い筈の瞳が蒼くみえる。髪は乱れたままだ。
「男は細いナイフを出して、わたしを裸にしたわ」
 晃子は立ち上がり、ガウンの胸をはだけた。
 
 首の下から乳房のまるみを過ぎた辺りまで、二本の赤い筋がついている。胸の真ん中でそれは交差している。血痕はほとんどなく、そう深いものではない。
 後ろをむく。同じものが背中にもあった。こんどは背骨に平行に走っている。
「葉子は何処にいるんだ、と聞きながらゆっくりナイフでなぞってゆくのよ」
「女はそれをみていた」
 背中には肉がつきはじめていた。記憶の中に疼くようなものがあった。
「男は北沢と名乗っていた」
「またくる、と言ってそのまま帰ったわ。御丁寧に女が煙草の吸い殻まで持ち帰ってね」 ソファに座っている晃子の脚がぶらりと揺れた。長くヒールを履き続けた小指の爪が潰れている。
「コーヒーでも飲もうか」
「そこにあるわ」

「夜の魚」一部 vol.38

 
 
 
■ 細い路地を抜け踏切を越えた。下北沢の劇場の地下に車を入れた。
 ネオンが並んでいる。その前に若い男女が座り込んでいる。自転車のサドルの上で口を吸っている。
 すこし歩く。駅から五分ばかりという。確かここだ。
 マンションの下にある公衆電話で晃子の部屋にかけてみる。
 応答はない。三度繰り返した。不思議な予感がする。不安が這いのぼってくる。
 エレベーターに乗った。鍵を持っていることを思いだした。チャイムを鳴らし二分程待った。返事がなく、鍵を開けてみる。玄関のつきあたりから右に曲がった小さな部屋に彼女はうずくまっていた。
 ふりむく。
 年齢より五歳年をとってみえた。尋ねても答えない。
 のろのろと立ち上がり、小さなソファに座ると、
「あなたって、大事な時にはいつもいなかったわね」
 と、低い声で言った。

「夜の魚」一部 vol.37

 
 
 
■ 馬鹿げているのは車だけではない。
 私はBMWを出した。高速の黒い二車線で四速、一八○まで出た。
 エンブレムは外されているが三二三だ。
 矢絣のラインも注意深く消されている。アルピナだろう。
 マルニイの後、BMWは四つ目になった。比較的マイルドなハンドリングに変わり一部のマニアを失望させた。
 首を傾けるだけでコーナーを過ぎるような神経質さは薄れたが、その分売り上げを伸ばした。八十年代の半ばから、チューンするメーカーが現れた。元々はプライベートでレースをする物好きのためのチューナーで、大振りなオーバー・フェンダーをつけ、スパ辺りでアルファと競っていた。
 この脚はビルシュではない。
 イタリアの赤いダンパーで、私も二十代の頃スカイラインにつけ遊んでいた記憶がある。収まりが硬くないのだ。
 湾岸から箱崎を過ぎた。とたんに空気の密度が濃くなる。
 二速に落とし、きついコーナーを曲がった。
 流れてはいるが一度にはゆかない。
 カムが変わっているのか、赤い部分から更に廻ろうとする。
「葉子の親父ってのは、何者なんだろう」
 元々は前後にある羽を外し、十数年前の車をこれだけに保っている。

「夜の魚」一部 vol.36

 
 
 
■ その頃、私はまだ半ズボンを履いていた。
 一九六七年十月八日、当時の首相による東南アジア訪問が企図された。
 そこには焦土作戦が展開されていたベトナムをも含んでいる。それに抗議していわゆる新左翼系学生が羽田に集結し、機動隊と衝突したのだった。多くの逮捕者を出し、ひとりの学生が死んだのだという。
 風化しつつあるが半ば伝説のようになっているその事件は、長ずるにつれ私も何度か耳にしたことがあった。
 
「そう、その時捕まった人達は普通に進学したり就職できなかったらしいの。父には義理を感じているようで、わたしが高校の頃、家にきて酔いながらそのことをくどいくらい話していたわ」
「君の親父さんは何をしているんだ」
「小さな会社をやってるわ」
「吉川は」
「赤坂にある大きな商社にいるのよ」
 
 亡霊に追いかけられているような気もする。その亡霊には実体があって、忘れた頃にかたちを変え執拗に甦ってくる。私は鞄を持ち、部屋を出ようとした。
「場所は何処なの」
「下北沢」
「カマロじゃ無理だわ」
 確かにそうだ。曲がりきれない。葉子は私に車の鍵を渡した。
「銃はダッシュボードじゃなくシートの下に置いて」
 下まで降りると銀色のBMWがあった。ふたつ前の型で、放射線状のホイルを履いている。
「カマロは親父さんのものか」
「すこしイジってあるみたい」
「馬鹿げてるよな」
「そうね」

「夜の魚」一部 vol.35

 
 
 
■ すぐに暗くなった。
 私は事務所に電話を入れ、母親が危篤で戻っていると言った。男と暮らし始めた事務の娘が声を出さずに笑った。思いつき、自宅の留守番電話を聞いてみる。床を拭くモップ交換のお知らせと電話料金の催促、そして晃子からの伝言が入っていた。ここ数年、自宅に電話などはなかった。
「つけられているようだわ、怖いのよ」
 時刻は午前一時過ぎ。多分昨夜だろう。私は東京に戻ることにした。その前に葉子に聞かねばならない。
「あの吉川という男は何なんだ」
「どうしたのそんな怖い顔をして」
「知ってる女が危ないんだ」
「恋人なの」
 私は答えなかった。黙って葉子をみていた。葉子が口を開く。
「吉川はね、羽田闘争の時に捕まったの。それを父が助けたのよ」
「羽田闘争だって」

「夜の魚」一部 vol.34

 
 
 
■ 明け方、薄い夢をいくつかみたがよく覚えていない。
 環状線の街灯が全て消え、その中をカーキー色の装甲車が走っている。その後ろには武装した兵士が大勢トラックに乗っていて、銃を肩に私の車を眺めている。
 気がつくと午後の半ば近かった。
「イビキが煩かったわよ」
「じゃ、味噌汁は」
 浅蜊の味噌汁とコーヒーを二杯づつ飲んだ。
「眠っている間に、買い物にいったんだ」
 葉子は薄い化粧をしている。明るい光の中で眺めると脚が伸びている。洗面所に立って使い捨ての剃刀を使った。どちらが夢か。鏡の中の顔に隈が出来ていた。

「夜の魚」一部 vol.33

 
    七 スープ
 
 
 
■ 机に置いてある雑誌をもう一度眺めた。
 その時、確かに葉子はよろこんでいるかのようにみえる。葉子は何色なのか。色が混ざるのだとして、男だけの色ではないような気がした。
 
 葉子がドアの前に立っている。ぺたぺた裸足で階段を降りてきたのだ。
 唇が震えている。浴室につれてゆき、バスタブにお湯を張り葉子の躯を洗った。窓の外は風が吹いている。曖昧な気持のままそれを聴いている。
 タオルを使っていると、鞄の中で携帯電話が鳴った。アンテナを伸ばすと雑音が激しい。
「楽しんでいるか、そこは二三日大丈夫だろう」
 東銀座の男だった。
「おい、ありがたいオマケまでつけてくれたな」
「ビデオはもっと凄いぜ」
「おまえ、誰なんだ」
「ちょっとかして」
 横から葉子が電話を取った。
「吉川、父は何処にいるの」
 強い声で問いただしている。
「そう、そうなの」
 葉子は電話のスイッチを切った。
「どういうことなんだ」
「まって、ゆっくり話すわ」
 電話を低い椅子の上に置き、葉子はドライヤーを使った。背中を向け、指だけで短い髪を流している。
 いつもこうだ。まって、と言われ、待ってみると機会を失う。
 隣の部屋にベットがあった。薄い毛布がかかっていて、葉子はそこで寝ていたのだろう。私は横になった。ぬるいものに吸い込まれ、すぐに眠りに落ちた。

「夜の魚」一部 vol.32

 
 
 
■ 私は殴ることもせず、それを眺めていた。
 胸の底に溜まっている残忍さに私は気付いている。
 氷を足すよう葉子に言った。グラスに二杯目を注ぐ。
「昔、福島の原発をみにいったことがある。外れたところに飯場があって、そこに沢山の男や女が居た。その時、居酒屋で酒を注いでくれた男にこのあいだ会ったんだ」
「都庁の後ろにある公園だった。写真をとるので夕方までいると、箱を抱えて制服に追い立てられている。奴はまだ若いんだ。フィリピンの女と結婚していた」
「それで」
「それで、間に入った訳だ」
「女とは別れていた。奴は炉芯部の作業をしていた」
「じゃ、浴びる訳ね」
「そうだよ、躯がきかなくなってくるんだ」
「あなたは何をしにいったの」
「女を買いにさ」
 私は葉子にいう。
「窓を開けろよ」
 波の音がする。他には音がない。リゾート用に作られたこのビルは、コンクリの底から冷えている。
「どうするの」
「脱げよ」
 下からだ、と私は言った。
 ベランダに出るように。そこでしゃがむように。
 細いタオルで手首を後ろから縛り、もうひとつ目隠しを葉子にする。
「同じことをしようじゃないか」
 みるみる鳥肌が立ってくる。寒いというが、聞こえない。
 浴室に連れてゆき小便をした。頭からお湯をかけた。
 Tシャツが濡れている。葉子は息ができない。
 口をあけ、訴えるような顔で上を向いている。
 叫ぶようになってゆく。その声は多分海岸まで届いた。
 底のない水のようで、それからは一定の段階が続いている。
 屋上のコンクリの上に葉子は立っている。立ちながら、泣いているのがわかった。五分したら戻るように。

「夜の魚」一部 vol.31

 
 
 
■ 女は人のために泣くことはない。
 泣きながらそれがどういう効果を持つか知らずに計算をする。
 葉子は膝を折り、手で顔を隠している。
 声の調子が波のように変わる。窓を開けると波の音か、空気がざわついている。暫く眺めていると葉子は泣きやんでいた。葉子は煙草を吸う。唇をまるめて煙を吐き出す。
「おととし、アメリカとイギリスに留学したの。そこで薬と男を覚えたわ。戻ってきて、ボランティアの活動に入ったの。今の生活がイヤだったのね」
 
 何処かで嘘があると思った。
 女の嘘は躯から入る。
「この写真は二十一の時よ。ビデオだってそうだわ」
 声の調子が変わる。
「そう、なんでもした。一晩で五人と続けたこともあったし、黒人は最高だったわ。中国のひとは硬いの、あなたよりずっとね」
 目線のない葉子の写真には陰毛がなかった。
 野外と風呂場で、腹の出た男達の下に膝まづいていた。
 葉子の眼が座っている。笑いだし、グラスに酒をついで冷たい紅茶のように飲んでいる。