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「夜の魚」一部 vol.20

 
 
 
■ 私は吉田健一氏の本が好きだった。履歴書の欄に書いたこともある。受けが良いのではないかと思ったからだ。彼の父親がつくった坂道で私は銃を持っている。
「撃つのよ」
「え、どうやって」
「いいから、映画でみたことあるでしょっ」
 窓から頭を出し、両手でトカレフを持ち、眼をつぶって引き金を引いた。目蓋の裏が白くなる。窓枠に頭をぶつけた。続けて絞ると後頭部が寒かった。頭をひっこめ、そこで眼を開けると赤い火花がみえた。
 ランクルのライトの片方が消え、小さなテールランプが黒いコンクリの壁面に放物線を描いている。横転してゆくらしい。
 葉子はスイッチに触り窓を閉めた。
「あたったのか」
「撃ったのは、壁と空よ」

「夜の魚」一部 vol.19

 
 
 
■ 日曜の夜なかば、葉子を送るため、第三京浜に乗った。
 雲は斑であり、風が吹いている。
 フロントフォークを伸ばしたハーレーが、芯のないマフラーで隣に並んだ。高圧縮の新しいエンジンだ。国産のゴーグルに旧ナチのヘルメットを被っている。
 昔、透明なチューブの中に麻薬をつめ、キャプテン・アメリカは南部へ向かった。撲殺された弁護士をニコルソンが演じた。
 架空の好況の後、暴力の気配が街に戻っている。
 終点のパーキングでジャガイモのようなものを食べ、缶コーヒーを飲んだ。葉子と運転を替わる。トンネルを幾つか越えた。道は比較的空いている。
「これ、ツェッペリンでしょ」
 ジミー・ペイジのギターは、まだ静かだ。
 その時、車が前につんのめった。
 振り向くと、ライトを消した山のような影がガラスの後ろにあった。メッキされたアニマル・バンパーがみえる。
 ランクルだ。
 葉子は加速した。
 ハイビームにし、ハザードを入れた。フロントにぶら下げたシビエのスポットをつける。なんでスイッチがわかるんだ。一度乗っている。
 降りてゆく坂道である。速度が乗る。一泊六千八百円とかかれた赤いネオンを過ぎた。振り向くと、四角い眼のランクルが車の屋根を照らしている。引きずる音は、外れたバンパーがアスファルトに擦れているのだろう。
 前に丸いテールランプのセダンがふさがる。
 ガツンとブレーキを踏み、セダンを避けた。そのままゆけるかと思ったがランクルも脚が硬い。ついてくる。前は黒い。
「窓を開けて」
「後ろの袋に銃を入れたでしょ」
 そうだ、捨てようと思い銃を入れた袋を持ってきたのだ。
「弾倉は」
「脇のレバーを引いて」

「夜の魚」一部 vol.18

 
 
 
■ その夜、私は葉子からいくつかの話を聞いた。
 歳は二十三の終わりで、実家は藤沢と鎌倉の間にある。神奈川県の丘陵にある四年制の女子大に籍があるという。家族については言葉を濁していた。私も聞かなかった。
 トカレフについて尋ねることはしなかった。どうしてか、今はその方が良いと思ったのだ。曖昧なかたちのまま夜は過ぎてゆく。
 シーツに、何かきらきらしたものが残っている。銀色の鱗のようだ。葉子は私のパジャマの上だけを羽織っている。
 
「従軍慰安婦って、知ってる」
「ああ」
「そうした問題を扱うサークルに入ってたの」
「ボランティアか」
「そう馬鹿にしないで。裕福だから考える余裕もあるんだわ」
 葉子は週末まで部屋にいた。乾燥機の使い方は覚えたようだ。私は仕事にでかけたが、サイズの違う靴を履いているような気分だった。すこしづつ部屋は整理される。布団も干されている。機械の廻りと机の上はそのままになっている。
「電話があったのよ」
「でるとね、あなた誰、と聞かれるの」
 葉子はピル・ケースを開けている。台所でわからないように後ろを向いている。なんなのだ、と尋ねると、
「アップジョン。眠るためなの」
 と、答えた。

「夜の魚」一部 vol.17

 
    四 天国
 
 
 
■ 月が高くなった。上着を手に持つことがなくなった。
 週の半ば、私は自室でクライアントの社内報の代筆をしていた。ディスプレイの横に置いた飲みかけの缶ビールが温くなった頃、部屋のチャイムが鳴った。
 出てみると葉子である。
「部屋の鍵をかえしにきたの」
 そう言って立っている。怒ったような瞳をしている。
「即物的な話だな」
「髪を切ったのよ」
 背中まであった髪が肩までになっていた。葉子を部屋に入れ、コーヒーを沸かそうと台所に立ったが紙がなかった。棚からエスプレッソ用の器具を捜した。古く、粉を吹いている。
「で、どうしたっていうんだ」
 私は苛立っていた。片方では抑えようともしている。葉子は答えない。
「若い女の思わせぶりにはウンザリだな」
「気持はわかるわ、でも」
「でも、なんだ」
「巻き込みたくなかったのよ」

「夜の魚」一部 vol.16

 
 
 
■ 私は街に出ることにした。
 足りるかどうか、あるだけの現金を持ち、麻のズボンを履いて車を拾った。
 波止場にて、粗いシャツを着ていたマーロン・ブランドは頬に脱脂綿をつめ、家族の愛について眼の下に隈を入れた。
 ニューヨークの歌姫と呼ばれたヘレン・メリルはそれから太り、ママ・コルシオーネと呼ばれることになる。
 表には出ないけれども、民族という境界というのは確かにある。
 盛り場に行って、立っている看板の文字を眺めてみると良い。近くには眼光の鋭い若い男が立っていて、スーツのズボンでは入ることが出来ない。乱れた英語を使い、すくめるような視線に耐え、私は店に入る。
 強い香水の匂いが漂い、それは半ば黒い肌の色を隠すもののようにも思われた。
 有線が入っているのだろう。ダイナ・ワシントンが澄んだ声で歌っている。
 安いスカーフを腰に巻いた女が傍による。
 私は色のないテキーラを頼むことにした。
 男達の視線がすこしだけ他に逸れる。フロアの中では、靴クリームのような肌色をした男と女が手を振り腰を揺らしている。
 新宿。その外れの街で、私は弾を買うことはできなかった。
 そもそも、何の為に買おうとするのかわからなかった。

「夜の魚」一部 vol.15

 
    三 九月
 
 
 
■ 私は日常に戻った。
 夏はゆるゆると過ぎ、短い女と別れた。エアコンのフィルターが汚れている。冷蔵庫の扉に磁石があって、間に紙が挟んである。燃えないゴミは木曜なのだ。
 九月になった。取材にゆくひとを送りに空港まで出た。
 長い橋桁を渡ると、見通せる食堂がある。夜なので、蒼い光が繋がっている。
「でね、こんどはさ」
 彼も彼女も、とりあえずのコンセプトということを語っている。皿は奇麗だが、輸入された牛の内蔵を混ぜ合わせたハンバーグを食べている。
 部屋に戻り、ソファの上で紙袋を開いた。袋はビニールコーティングしてあり、中にはハンド・タオルに包まれた拳銃がある。
 弾倉を開くと、二発使われていた。思ったよりも硬いスプリングを親指
で押しのけ、銃弾のひとつを取り出してみた。先は鈍い鉛になっている。弾を指先で暫く廻してから、唇に挟んでみた。案外に重い。舌を尖らせると曇った味がする。

「夜の魚」一部 vol.14

 
 
 
■ 葉子は戻らなかった。
 昼近くになった。のろのろチェックアウトを済ませることにする。
 フロントにゆくと車の鍵を出された。いぶかると、今朝がた預けられたのだという。
「荷物はトランクだそうです」
 開けると、宅急便の紙袋がある。持とうとするが、不思議に重い。
 私は車を出し、路地の方角に曲がろうとする。通りは汗ばんで、曇ってはいるがそう混んでもいない。ブロックの前に車を置き、大桟橋の横の路地から埠頭の奥へ歩くことにした。
 埠頭は鉄と濁った暴力の後味が匂っている。
 煙草を吸ってみようと思うのだが、何故だか思いとどまった。一台のユンボの脇を通り抜け、明るい通りに出ると警官が立っている。
 水上警察だ。軽く会釈して看板を眺めると、「行方不明の人を捜す月間」と書いてある。看板にはビニールがかかっていて画鋲でとめてある。
 紙袋の中には弾倉を別にしたトカレフがあった。

「夜の魚」一部 vol.13

 
 
 
■ 蛍光燈を四隅に張り付けたようなビルが右手に立っている。
 私は車に上着を忘れたことに気付いた。仕方なく目の前にある牛丼屋に入ることにした。シルダク、と叫んでいる若い男がいる。波を打った大味な牛肉を半分だけ食べ、私は店を出た。
 ブルーノートのジャケットが何枚か飾ってある階段をみつけた。
 重苦しい音なんだろう、と階段を降りドアを開けた。客はいなく、使い込まれた音が流れている。チョッキを着た白髪の店主がグラスを拭いている。私はジン・ライムを頼んだ。すこしだけ甘く、高校生になったような気分だった。真空管、多分マランツだろう、アイク・ケベックのボサノバが流れ、そういえば夏も終わるのだな、と同じものを二杯飲んだ。
 歩いてホテルの部屋に戻り、風呂に入った。
 
 どうしてここにいるのだろう。私は何をしているんだろう。そういえば事務所に連絡をしていない。この部屋にはベットがふたつあって、そのひとつだけを使った。暫く前まで抉るようなかたちで重なっていたことを思いだし、不思議な気持になった。
 十二時を廻ったが葉子は戻らない。
 備えてある厚いグラスで、私は持ち込んだウィスキーを嘗めた。グラスには紙が被さっていて、紙には細かな皺が寄っている。
 カーテンを開けても外はみえない。みえるのはコンクリの橋桁で、部分的に青い照明があたっている。雲の反射なのか、その上の空は鈍い灰白色をしている。
 枕の上に長い髪の毛が一本落ちていた。拾ってみる。暫く指先で遊んでから捨てることにした。煙草を消して横になった。そのまま曖昧になってゆく。

「夜の魚」一部 vol.12

 
 
 
■ うたたねを過ぎると、私は自宅の留守番電話をきいてみた。
「残念だね、君ならわかるとおもったんだが」
 社長の声が吹き込まれている。
「食事だけのつもりだったんだがね」
 嘗めるような映像の秘密はおそらくそういうことで、決して諦めない白いシャツの襟のかたちに似ている。私はむせるような薔薇の匂いを思いだした。
 
「車の鍵を貸してよ」
 夕方が過ぎ、葉子がそう言う。
「下着も買ってくるわね」
 私は車を出し、伊勢崎町の角で運転を替わった。
 シートを前に出し、黒いゴムで髪を束ねている。ヒールを脱ぎ、助手席の下に放り投げた。カセットを眺め、サンボーンじゃ間が抜けているわね、と言う。私は言い訳をしかかった。
「先に帰ってて」
 言い放すと、いきなり車線に割り込んだ。後ろのタクシーが怒る暇さえなかった。

「夜の魚」一部 vol.11

 
 
 
■ 二日目になった。
 金がなくなった。葉子が何枚かの紙幣とカードを渡してきた。私は眠り、そのあいだウィスキーと乾いたパンを葉子は持ち込んだ。
「ちがってる」
 と、薄い涙を浮かべている。
 途中、なにかひっかかるようなものがあって、それを越すとすこし広い空間に辿りつく。硬いものがあって、その先はいくつかに割れている。割れたものどうしが触れ合っていると、どうしたらいいのかわからない。
 痛みのようだ。