■ ニュウ・グランドのロースト・ビーフはそのものの色をしている。
ほとんど味はなく、こうなのだと言われれば納得をしてしまう。
内側が古くなった桃色で、一番端の部分は紫にも似ている。胡椒なのか、つぶつぶがみえている。
運河沿いのホテルに私達は入ることができた。
すり切れた絨毯が引いてある。昔は色がついていたのだろう。フロントで前金を払うと、広くて鈍いエレベーターに乗った。
「こっちは下士官のホテルなのよね」
進駐軍がいた頃の話だ。
一本運河を越えるとめっぽう格が落ちた。
連れ込んだ女もそうだったのかはわからない。
誰に聞いたのか、そんなことをよく知っているなと私は思った。
雨の多い夏が過ぎてゆく。
部屋は湿っていて、色の褪せた厚いカーテンが掛かっている。
机のようなテレビがあって、チャンネルはダイアルを廻すようになっていた。上には埃と造花がある。
「ねようか」
私は葉子の足首を眺めた。糞かき棒のようではなかった。いつかとは別人のようだ。
「いつも、おんなの人の前でおしっこをするの」
堤防からする小便は片方で光っている。
音がきこえるのだが、遠すぎて風のようでもある。
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「夜の魚」一部 vol.9
二 夏のはじめ
■ 葉子はニュウ・グランドホテルの回転ドアの前に立っていた。
雨ではあるが、その上にはテントがあり、ところどころ切れた細かい電球が垂れ下がっている。平日の深夜、海岸通りにはほとんど人影がなかった。
ドアの前で私は車から降りなかった。手を振って軽やかに立つことができたら、などと煙草を捜しながらすこし思った。
「かわらないわね」
葉子はそう言って助手席に脚を揃える。
「こりないわね」
と、呟いているようにきこえる。
本牧の外れ、埠頭の引込線を越え、破れた鉄条網を足で踏むと堤防にでられる。
昼の熱を保ち、粘るような海があって、運河を広くしただけのようにもみえている。
向こうには時折炎が見え隠れし、その脇を通ったのかと思った。
「メンソールじゃないのね」
私の煙草を一本くわえ、葉子は唇の端で火をつけた。
「妊娠してると、欲しくないんだよな」
少年が呟いているようにきこえた。爪先を眺めると新しいヒールである。
葉子は膝を肩よりもひらき、右手を海へ突き出した。
手首を左手でつかんで胸の上まで持ち上げ、片目をつぶっている。
狙いは、対岸の炎のようでもある。
まだ撃たない。
「夜の魚」一部 vol.8
■ 横羽は路面が荒れている。ダン、ダンと繋ぎ目で車が揺れる。煙草を吸っていないことに気付いた。どのへんだろう、黒い雲の後ろでちらちら炎がみえた。
横浜駅を過ぎると高速コーナーが続く。ステアリングを傾け、減ってきたタイアがいつ流れるか神経を払っている。トンネルに下ってゆく。夜の中にまっすぐな光があって、なんなのか理解できない。前をゆく新型がブレーキを踏み、かわそうとすると後ろが流れた。車は横になって壁面が近づく。
光は海沿いの公園からの夜を照らすスポットだと気付いている。
「夜の魚」一部 vol.7
■ 部屋に戻り、壊れたソファに横になった。暫く眠ったのか、遠くで虫が鳴いている。電話なのだ。受話器を一度落とし、もう一度拾うと、どこか覚えのある声がする。葉子だ。そう名乗っている。海岸通りにいて雨が降っているという。
私はポロシャツに着替え、車に急いだ。天現寺まで廻り首都高速に乗った。
蒼白い塔が左手にみえている。近づいてゆくと、夢をみているような錯覚に陥る。夏のタワーだ。ちらりと海がみえ、高速一号線に入る。
鈴が森で事故があった。赤い発煙灯が何本も落ちている。白い煙が低く広がっている。遠くまで見通せない。そう思うと雨に入った。
「夜の魚」一部 vol.6
■ 十日程過ぎただろうか。予定していた仕事が流れ、坂道を戻ってきた。
青焼き段階まで進んだ連作ポスターで、突然のキャンセルだった。これまでの経費の払いをどうするか、雨の前の気分で夜の空を眺めた。
雲があり、部分が鈍く光っている。朱色であって、なにものかの反射だということはわかっている。破格のアルファを断った際、ある程度予測はついたことだ。
〈心の友へ〉と、細い万年筆でカードには書かれていた。
「夜の魚」一部 vol.5
■ 何日か過ぎた。
私は自分の古い車で芝浦の桟橋にでかけた。
出来ていないビルがあり、その前は浮き彫りの商標が描かれた平たい倉庫になっている。痩せた五十がらみのガードマンがいて、近づくと赤い電灯を彼は左右に振る。
「寒いね」
「そりゃ、雨だからね」
階段を昇ると狭い海があって、向こう岸にはガラスのようなものが光っている。
あの夜、薔薇の花はロシア大使館の前の制服に預けてきた。
「いやでしょうけど」
というと、くすんだ笑いを浮かべ、私が何者なのか調べることもなかった。
「夜の魚」一部 vol.4
■ それから二週間程、何事もなく過ごした。
途中、近くの事務所の社長から車を譲ると言われ、試乗することになった。彼は官能的な映像をつくる、ダブルのブレザーがそう気障にはみえない四十代の男で、何台かの車を持っている。
私の仕事は広告の文案、コピーを考えることで、今の事務所に移ってから五年が経つ。彼からはこのところしばしば仕事の依頼があった。事務所を通すこともあり、そうでないこともあった。広告のコピーとはいっても、それだけが独立している訳ではなく、デザインや写真の領域との区別は曖昧である。事務所の若い者に指示するより自分でやった方が早いこともあるが、今の事務所の規模では、基本的に一人で済ませることも多かった。そうでなくては儲けにならないのである。
彼の車の中に、小豆色に塗られたアルファのGTVがあって、背中の丸みが昔憧れたベレットに似ている。地下の駐車場で、彼の秘書だという光り物を幾つも身につけた若い女から鍵を受け取ると、私はエンジンをかけた。すこしバラつくものの、ウェーバーのポンプはカチカチ音をさせ、これなら一台で済ませることもできるかと薄い期待をした。
ダウン・ドラフトの吸気音が響いている。通りを抜け、深夜の首都高速を一周する。右の後ろがすこし抜けているようだ。シンクロもセカンドが緩いだけで鳴る事はなかった。銀座裏の橋をくぐり、産業道路の上で国産のRに抜かれた。
雨が降り始めた。回転式のレバーを廻し、窓を閉めた。
室内に甘い匂いが漂っている。
生きたものの匂いだ。
芝で高速を降り、まだ明るいタワーの下で後ろを捜してみた。
プラス2のシートの下、背もたれの背後に、むき出しの薔薇の花束があった。緑色のリボンで結ばれ、ダージリンのような色をしている。小さなカードが挟まっていた。花の息か、次第に窓が曇ってくる。
「夜の魚」一部 vol.3
■ 翌朝、事務所への出がけに眺めるとまだ眠っている。不思議な匂いがするので毛布を剥いでみると、腰のあたりに血が滲んでいる。私は紙幣を置き、鍵をポストに入れるようメモすると部屋を出た。
夕方仕事を終え、部屋に戻るとシーツが干してあった。
「乾燥器のつかいかたがわからないのでヒモをはります」
「お金は借りてゆきます。葉子」
鍵がないのだ。
部屋の端から端にナイロンの紐が張られていた。シーツが垂れ下がっている。灰皿は洗ってあり、ベランダのアルミ缶がひとつの袋にまとめられている。私は小さなグラスでのろのろ酒を嘗め、まだ湿るシーツを眺めては眠ることにした。
「夜の魚」一部 vol.2
一 ALL OF YOU.
■ 葉子という女を拾ったのは梅雨の切れ間の日曜の夜だった。
私は仕事を終え、部屋に戻るところだった。車を停め、煙草を買おうと歩道を渡った。
バスを待っているのか、若い女が緑色の看板にもたれている。
とうにバスの時間は過ぎていた。廻りに人影はない。
販売機の前で腰を屈めると、そのまま女の姿が崩れてゆくのがみえた。
送ることになったのだけれど、びっしりと汗をかいている。
「ごめんなさい、よくあるの」
バス停で倒れることを指すのか知らない。
湿度のなかに青い匂いが混ざっている。
常緑樹が花をつけている。
彼女は私の部屋のベットに横になることになった。
「シーツをかえたのね」
納得したでもなく、彼女は寝息を立てた。
薄く体臭がする。足首が汚れている。何日か街を歩いていたかのようでもある。暫く眠っていなかったのだろう。
私は白いベルモットを一杯嘗め、目覚ましを傍に置き、暫くぼんやりして壊れかけたソファに躯をまるめた。
「夜の魚」一部 vol.1
序
■ 本牧の外れの引込線から右に曲がるとその先は行き止まりだ。
背の高いコンクリの壁をよじ登ると、黒く粘る海が見える。
海とはいっても実感はない。薄い雨に雲が浮かんでいた。
壁の横にぽつりぽつりと車が駐まり、車高を落とした白いセダンのボンネットの上に若い男が座っている。
光るものを持っていて、近づくと、釣り竿を照らす電灯のようだ。
伸びかかったパーマの頭を斜めに、バンパーに右足をのせ、考える格好で竿の先を照らしている。標識が半分取れかかっていて、「国際埠頭」と書いてある。
海は見えない。
音楽もきこえない。